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桜井博志さん(旭酒造会長)「獺祭、不思議な縁の組み合わせ」インタビュー

この40年間で、市場規模が3分の1にまで縮小している日本酒。そんな中、破竹の勢いで売り上げを伸ばし、2012年、純米大吟醸酒のトップメーカーに躍り出した旭酒造株式会社。その主力商品である「獺祭」は世界20か国に出荷され、注文に生産が追いつかないほどの人気の日本酒となりました。石材卸業の櫻井商事を設立した後、先代の急逝を受けて84年に家業の旭酒造株式会社に戻り、純米大吟醸「獺祭(だっさい)」の開発を軸に経営再建を図った桜井社長。社長に就任するまでのいきさつ、技術発展と酒造メーカーの生き様について伺ってきました。
こんな話をしています……
「酒蔵の社長なんて自分にできるんだろうか」と友人に相談していた
組織の中で上手く泳ぐことができなかった
“優秀ではない自分”を受け入れる
・(世界で勝ち抜くには)「憧れ」の力が必要
・数値目標などは考えない、作らない
桜井博志(さくらい・ひろし)氏プロフィール  ※インタビュー当時

山口県岩国市にある旭酒造の3代目社長。ここ数十年で日本酒市場が縮小する中、小規模な仕込みでないと造れない、また少量でも愛され続ける純米大吟醸酒に商品をしぼり、『獺祭(だっさい)』を開発。2012年には純米大吟醸市場でトップメーカーに、現在では20か国以上に進出。2014年夏には、パリのシャンゼリゼ通りに直営の小売店併設レストラン&バーを出店する。 著書に『逆境経営―山奥の地酒「獺祭」を世界に届ける逆転発想法』(ダイヤモンド社)。

獺祭の蔵元|旭酒造株式会社 / Dassai Official Web Site

身近ではなかった酒蔵の世界

――インタビュー前に、工事中の酒造を見てきました。

桜井博志氏: 2015年2月に完成する予定です。先日の『中国新聞』にも、書かれていましたが、今一番私たちが困っているのは酒米の不足です。山田錦が不足しているので、酒蔵ができたからといって、酒米が増えて生産増に繋がらなければ意味がありません。『逆境経営』の中でも「山田錦を作る人がもっともっと増えてほしい」と書きましたが、その受け皿を作るということで、今のうちに設備など、準備ができることをやっていこうとしています。

私は長男なのですが、当時はまだ病院で出産するという感じではなかったので、おそらく今工事で壊している古い酒蔵の中で生まれたのだと思います(笑)。昔はひ弱で、「あんなに気が弱かったら、酒蔵の社長はできないんじゃないの?弟の方がよっぽど向いとると思うけど」などと、人からよく言われていたようです。

ですから、今でも自分が社長をやっているというと、不思議な気もしますね。小学生の頃はそういうことを陰で言われたりしていた反発心もあって、「将来は弁護士になりたい」と思っていた記憶があります。しかし、高校生くらいになると、やっぱり酒蔵のことを考えるようになりましたね。でも、考えると同時に恐れもあったので、「酒蔵の社長なんて自分にできるんだろうか」と友人に相談したりもしました。

「あんた、向いとるんじゃないの?」と言ってもらったりして、段々とその気になっていったような気がします。でも、私が子どもの頃は、酒造りの現場に蔵元はあまり立ち入らなかったのです。父は自分の仕事に関してはあまり直接教えてくれなかったような気もしますので、当時の私にとっては、酒蔵は知らない世界でした。

――松山商科大学(現:松山大学)へと進まれます。

桜井博志氏: 経営学部に進み、初めて1人暮らしを始めました。今でも思い出すことがありますが、何もないので部屋が広く感じられて、本当に解放感で満ち溢れていました。解放されすぎて、卒業はあと5単位で留年というすれすれのラインでした(笑)。「フランス語ってかっこいいな」くらいの気持ちで第二外国語はフランス語だったのですが、現在ではフランスにも出店することになり、そのように繋がっていったのも、今思えば不思議ですね。



「きばく(気迫)より、さらっと」の組織論

桜井博志氏: 大学を卒業後、酒蔵を継ぐということを前提で西宮酒造に入りました。酒造業界で生きていこうと思っている、それなりに真剣な社員だったろうと思いますが、振り返ってみると、サラリーマンとしてはあまり出来が良くなかった。

変な言い方かもしれませんが、組織の中で上手く泳ぐことができないのです。社会にでると、組織の中で上手いこと自己アピールすることによって自分の立場が良くなったりとか、それに失敗して立場が悪くなったりとかありますよね。もしかすると長男だからというのも原因かもしれないと思うこともありますが…(笑)。

長男というのは、生まれた時からごはんやおかずが目の前にありますが、二男、三男だとライバルが増えるわけですから「取られてしまう」、といった競争心があるわけです。のんびり育ったので人がいいというか、そういった組織の中ではなかなか上手く力を発揮できないので、ずっとサラリーマンだったら、私は芽が出なかったと思います。

やっぱり向いている人、向いてない人がいると思います。ですから、サラリーマン時代の自分の経験をもとに、ここの会社では、社員としての力量以外のところでパワーバランスが決まってしまったりすることを、許さないようにしました。ここの社員はあまり勇ましいのがいないというか、穏やかな人間が多い。やっぱり、社長になんとなく似てくるのでしょうか(笑)。

家族みたいなものだと思います。実際に皆の顔を覚えていて、「こいつはいつも元気だな」「今日は元気がないな」「なんとなく少し顔色が悪いな」とか、「こいつは前の日に飲み過ぎとるな」とか(笑)。そういった、社員一人ひとりの様子をなんとなく見ています。まだしばらくは今の考え、空気感のままで良いと思っています。自分と会社が一体になって、どんどん成長していっているという感じがしますね。

それなりに良い仕事をしてもらおうと思えば、皆が幸せでなければいけません。入社してくれようとする人によく言うのは、「よく考えてから入ってきてほしい」ということ。「つまらない仕事だけど、当面飯が食えないから仕方がない」という人間も絶対に0にはなりませんが、そういう人はなるべく少ない形にしないと、会社としても戦力が落ちてしまいます。

「会社に入って良かった」とか「会社にもっと成長していってほしいな」と思っている社員の割合の方が多くないと困りますね。年配の方は「気迫」のことを山口弁で「きばく」と言います。やる気はなくても眼だけはかっと見開いて、やる気満々の顔をしておくこと。昔の軍隊ではそういうものがありましたが、結果をみると、それだけではいけないな、と私は思っています。精神論だけでは組織は強くなりませんよね。見せかけの気迫などはなくてもいいから、さらっと結果を出せる組織を私は狙います。

「売れるかも」「私にもできるかも」
暗中模索の原始的マーケティングの日々

――旭酒造に戻られてから、石材卸業をおこされたのは?

桜井博志氏: 戻ってきたものの、父とは馬が合いませんでした。大きな理由の1つは企業の業績です。その頃から酒の業界は、前のようにただ真面目に努力さえしていたら伸びるという状況ではなくなってきていました。第一次オイルショックが終わった後ですから、1974年から厳しさが増してきて、知恵、資金、それから立地に恵まれないところは負け組になっていきました。

本当の力が試される状況なので、総合力で優劣区別がつく。ここは立地の面で言うと、それほど良い立地ではないし、他のものもそれほど飛びぬけて優れてはいない。そうやって少しずつ右肩下がりになった訳です。それからもう1つ。父としては単純に「息子が帰ってきたら大活躍してくれて、酒がもっと売れるようになるだろう」と思っていたのが、全然上手くいかなかった訳です。

酒の業界はすでに、そういう状況ではなかったのです。だからお互いになんとなく上手くいかなくなり、細かなところで衝突をするようになりました。だから、決してそれぞれの方針などが合わなかったということではありませんでした。最後は感情的な亀裂となり、「もうお前は出社してくるな」と言われ、「もう明日から出社しません」という話になりました。面白可笑しく言うなら、「お金が回っている間は夫婦仲は良いけれど、お金がなくなれば夫婦仲が悪くなる」という例えに近い状態だったように思います(笑)。

――就職先を探す、という選択肢はなかった?

桜井博志氏: その選択肢は私の中にはありませんでした。自分で何かやろうと思って色々なところで話していたら、石材の採掘業を女房の親戚がやっていて、「あの石はよく売れているみたいだ。うちも売ろうかな」といった感じでしたね。

恐らくその時期が、石材業にとっては「まじめに努力すれば売り上げがどんどん伸びていく時代」だったのだと思います。結果論で言うとそう思いますが、その当時は時代分析などはしていませんでした。「なんとか私もできそうかな」とか、「売れるかもしれない」という感覚でやっていたので、そういう意味での原始的マーケティングはしていたかもしれませんね。

そうやって一生懸命仕事をしていたら、父が急逝してしまいました。ところがその時、瓶詰場のタンクに出荷待ちの酒がありました。瓶詰前のお酒は、アルコール度数も市販規格に調整していますが、そのままでは品質の劣化が進んでしまうので、なるべく瓶詰めが早い方が良いのです。そういった一刻の猶予も無いという状況で、通夜、葬儀の時に「どうしましょうか」という話になるものの、誰もそれを決断しない訳です。自分の葬式で4000リッター位のお酒がだめになってしまうことを、父は良いとは思わないだろうと思い、「瓶詰めをしよう」と私が指示をした時点で、私が社長になることが決まったのだと思います。

「優秀ではない自分を受け入れる」
社会には敗者復活がある

――製販一体体制への変更や、人員を広報用に配置されるなど、色々と工夫をされていたそうですね。

桜井博志氏: 父の死後、酒蔵を継いだ最初の5、6年は、基本路線の踏襲という感じで一生懸命頑張りました。そうすると結果として、それまでよりは頑張る訳ですから、数字は前年比85%だった酒蔵も101%、102%などに戻る訳です。でもそれを戻すために、ものすごく努力しているから、例えば経費や販促費、設備の投資などにもお金を使いますし、会社のバランスで言えば、どんどん悪くなって、利益は下がってくる訳です。そこまでやっても国の経済成長率が107%ぐらいで、それと比べるとやってもやっても泥沼に沈んでいくような感じもあり、打つ手もなく、負け続けていく自分を見ているような気がして怖かったですね。

――『逆境経営』にも、その頃の心境がつづられていましたが、それでもがんばり続けられたのは、なぜだったのでしょうか?

桜井博志氏: 父は、上手くいかない会社を自然死させる方向性を選んでいたようにも思えて、それに対する反発もあったように思います。だから酒蔵をなんとか上向きにさせて、親に対抗しようという思いがあったのかもしれませんね。酒蔵として縮んでいくままで、一生が終わっていくというのが私には許せなかったのだと思います。

でも、パフォーマンスという点においても、酒蔵はあまり良くない状況でした。200本~240本位の酒を積んでトラックで販売していたのですが、1日に100本売るのが精一杯で、下手したら0という日もありました。それで「私たちが売っている酒は、本当に世の中に必要とされているものなのか」と改めて考えるようになりました。

原点に立ち返り試行錯誤していく中で、純米大吟醸に出会ったのです。最初は上手くいかなかったこともありましたが、なんとか作れるようになり、少しずつではありましたがお酒に関しても売り上げが伸び始めました。でも、最初から「純米大吟醸の道だ」、と決めていたわけではなくて、試行錯誤の末に今の路線に辿りついたのです。退路を断った決断をするというよりは、ちょっと足を踏み出してみる、ということも大切なのかなと私は思います。結果として、会社全体としても2003、4年くらいには、「純米大吟醸1本でいこう」ということになりました。

――思い切りの秘訣は?

桜井博志氏: 少年野球では4番で投手、灘中から東大の法学部に入ってエリートコースを歩む、というのは、皆ができるわけではありません。だから、“優秀ではない自分”を受け入れるのです。足が遅い人は、早く走れるために少しでも早く走れるスニーカーがあればそれを買えばいい。うちの新入社員によくする話があるのですが、会社と学校の大きな違いは、「カンニングしてもいい」ということ。どうしても勝とうと思ったら、前の日に人より先に進んでおいて、そこからスタートすればいいのです。

仕事では朝まで同じスタートラインで待っている必要はありません。しかも敗者復活戦有り。だからトーナメントではなく、リーグ戦で勝てばいい。51勝つか、1勝99敗でもその99敗を決定的な負けをしなかったら大丈夫なのです。もう1つ、社会は学校と違うかもしれないと思う点があります。例えばサッカーだったら、ルールぎりぎりまでいかないと勝てませんよね。でも、ルールで完全に違反とされていないから、ここまではやっても大丈夫かもしれないという部分でも、「旭酒造にいる間は、ルール上はここまで許されるとしても正しくない事はだめだ」と言っています。

――酒蔵の見学は、たとえライバル社であっても受けるとお聞きしました。

桜井博志氏: ええ、大手さんの酒蔵の技術関係者の方などにも、オープンにしています。一度見に来られたくらいで抜かれるようでは、その技術にはもう価値がないのだと思います。また、見せることによって技術的に弱いところが見えてきます。ですから、見学の条件として大手会社には、気づいた弱点を指摘してもらうようにしています。

例えば日産の自動車開発部などといった他の業界における大手会社がいらっしゃった際には、「うちの蔵を歩いて回ってみて、気になった点、ここが弱点だなと思うところを書いてほしい」と伝えています。見学を許可するかわりに、欠点を見つけてもらう。それがすごく勉強になります。

そうやって「自分たちの会社を磨く良い機会だ」と、見学を受け始めたのは、この1、2年位でしょうか。あと、やっぱり怖かったのは、“出る杭は打たれる”ということ。そのためにも、あえてオープンにしようとしたのです。オープンにしていると、打たれるにしても打たれようが変わってきますよね。それから、うちの蔵を見に来た人は、ほとんどが味方になってくださるので、ありがたいですね。

「人と技術が融合する」新時代の酒造メーカーとして

桜井博志氏: 宅急便が普及してからは仕事の仕方が変わりましたね。酒を東京に送る時に、5トンコンテナで1500本積むか、あるいは大型トレーラーに積んで4000本積むかといった選択肢しかなかったのが、10本でも20本単位でも、簡単に届けられるようになったのです。

でも、物流の機能がない時代に、今のような方向にいこうとしても上手くはいかなかったと思います。また、昔のワードプロセッサーは4、500万円とかなり高価で、設置してある部屋は空調管理されていて、決まった人しか入れないような感じでした。それが30万円台を切って、白黒のコピーが100万円を切り始め、年商1億かそこらの酒蔵でも買える金額になっていきました。そうやって自分たちで色々な情報発信ができる時代ができあがっていきました。地方の小さな企業でも、自前で色々なことができるようになってきましたので、その物流と情報の両輪は色々な変化をもたらしたと思います。

――人と技術が融合する時代の酒造メーカーの在り方とは。

桜井博志氏: 酒の管理というのは、自動車のように部品と部品をくっつけて、パーツをくっつけていって作り上げるというものではなくて、あくまで発酵という曖昧模糊としたもので、最終的に1+1が2にならない世界なので、人間が介在する余地が大きいのです。

だから、私たちが将来的にはロボットスーツを着たり、メガネにカメラがついているものなどを使っていくなど、全部オート化ではなくて人間と技術の融合という感じになっていくのではないでしょうか。判断に関しては人間が下さざるを得ないから、完全に機械化をしてしまうのは難しいと思います。選択肢の中から1つを選びだすことの助けとなる情報を、常に提供してくれる技術を使っていくという方向に、旭酒造も向かっていくと私は思っています。

「等身大の酒蔵」で山口から世界へ

桜井博志氏: 小売店さんや飲食店さんというフィルターがあってお客さんがいるので、酒蔵の本心というのは、お客さんに伝わっていないのではないかと思うのです。酒販店さんや飲食店さんの思惑もあって、印象も変わってきますよね。

だから酒蔵というのは、神様のごとく、酒のために斎戒沐浴してやっているというように思っているお客さんもいるかと思えば、金、利益のためならなんでもやる、というように思っているお客さんもいます。やっぱり人間だから、ふらふらもするし、ちょっとお金も欲しいし、ええかっこもしたいけどもやっぱり良い酒も作りたい。そういう等身大の酒蔵というものを分かってもらおうと思ってブログを書き始めたのです。

それが10年以上続いて膨大な量となっていて、それを編集することになりました。最初は「本を書いてください」という話でしたが、「書く暇もないし、忙しいから」と断ったのです。「私は書けませんが、その代わりにホームページの資料があるから、編集して書いてください」とダイヤモント社さんにお渡ししました。題材として編集者の目にとまり、本にできたのはよかったですね。

――「等身大の酒蔵を伝えたい」という想いがきっかけになったのですね。

桜井博志氏: 酒蔵ですから、美味しい酒を作って、お客様の生活の中に彩りをお届けするということが、まず一番ですよね。あと、日本のお酒を世界に出していくことによって日本の文化を世界中に発信していくというのは、絶対に日本にとって大きな戦力になると思うのです。

例えば、ベンツとレクサスがありますよね。レクサスがこれから先も世界で勝ち抜いていくためには、ベンツより安くて、性能が良いだけではダメだと思います。そして、国に対する憧れのようなものも必要ですね。ドイツだと、ベートーヴェンがいてクラシックの音楽の国で〜と、国としてのイメージができ上がっています。それと同じようにイメージを大事にすることも、今まで以上に大切だと思います。

――日本酒ならではのエピソードも

桜井博志氏: ワインびいきの方からは、「日本酒は非常に人工的だ」という言われ方をするんです。ワインは、畑からブドウをもいできて、発酵させたらワインになる。日本酒は蔵の中でこねくり回したりして人の手が入っている訳だから、ワインは農業と共にあるのに、日本酒は人工的だということ。でも、これには1つ大きな理由があるのです。ワインというのは、欧米の社会に入り込んで、過去何千年という時代を経てきた訳です。ヨーロッパは侵略し合ってきたから労働力には事欠きませんでした。

でも日本は島国ですから、侵略し合ったことがない。そういった意味では労働力に恵まれないのですが、逆にフラットな社会だったということのために、自分たちで工夫して仕上がりに責任を持つ杜氏という労働者集団を、日本酒の業界は持つことができました。日本酒がここまで複雑な製法を取ってきたことの一因は、日本の侵略し合うことのないフラットな社会だったということ。冷戦が終わったらとんでもない世界になっているわけですから、こういう日本のような社会を世界が求めていかないといけないはずだと私は思うのです。お酒作りを通して海外に対して発信していくと共に、国内に向けても、そういったことをもう一度発信していこうと思っています。単なるブームで終わらせないためにも、こういう日本酒の特質、その思想や背景の説明が大事だと思っているのです。

――山口から世界へ。

桜井博志氏: 先ほどの話でもありましたが、これまでは、「色々やったけど、結局これが良かった」という感じでしたので、あまり展望を描いてこなかった部分もあります。当面の目的として考えていることは、やはり日本酒を世界にアピールしていくこと。その結果として、存在感のある形で、世界中で『獺祭』と、他の日本酒が売れていくということを目標としています。

よく言うのは、私たちは数値目標などは考えない、作らないということ。「来年、再来年は、今の需要でいくとこのくらいの需要になりそうだから、このくらい準備をしないといけないな」ということを私たちは考えないといけませんが、アルコール飲料である限りは、これだけ飲んでもらわなければいけないとか、数字ありきだと問題が起こることが多いのです。売れるというのは、美味しいから、ものが良いからであるべきだと思っています。 常に戦い、挑戦の連続ですが、先に進むためには仕方がありません。この先には、成功もあるかもしれないし、失敗もあるかもしれない。でも、その両方を酒の肴にするのも悪くない。私の会社を見て、それが皆さんと私たちの勇気に繋がればいいかなと思っています。