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久野悟さん(東洋セラミックス)「発想の具現化」インタビュー

発想の具現化

有田焼のタジン鍋やペンダントライトなど、魅力溢れる製品を次々と世に送り出している久野悟さん。産地外の出身者として、従来の製品に外からの発想の加えた珍しい有田焼を数多く手がけています。有田に根を下ろして40数年、「挑戦し続けることで、存在意義を見出していた」と語る久野さんの、具現化させることへの想いとは。ものづくりの土俵を与えてくれた産地への感謝とともに、未来に続く終わらない挑戦への意気込みを伺ってきました。

「外からの目」が活かされる
新しい発想の有田焼

久野悟氏: 
ここ「有田陶芸の里プラザ」は、個性豊かな陶磁器が一堂に会する焼物の総合卸センターとして、国内外から多くの焼物ファンの方々が訪れる場所です。現在22店舗が軒を連ねており、私が代表を務める東洋セラミックスもその一員として、「より多くの方々の目に触れて欲しい」という想いから、5年ほど前、ここに拠点を移しました。


ここで、仲間の職人さんたちと協力して生産した食器類、タジン鍋やペンダントライト、また異素材の組み合わせとしてスプレーボトルやワイングラスなど、従来の有田焼に新たな発想で作った、さまざまな製品を販売、お届けしています。これらの製品は、全国各地の百貨店での催し物や各種展示会などにも出展しており、新たな有田焼の魅力のひとつとして、全国の皆様に向け発信しております。またパリのルーブル美術館でも展示会を開くなど、最近は海外にも目を向けて取り組んでいます。

――珍しい製品を数多く手がけられています。

久野悟氏: 
もともと私は、有田の出身ではなく県外からやって来ました。こちらにやってきたのが昭和46年。以来40数年有田焼に携わる中、「外からの目」で発想し、具現化するものづくりを、当地の職人さんと一緒になって続けて参りました。

名古屋から遠く離れた出会い

久野悟氏: 
私はもともと名古屋の出身で、家電販売店を営む家で7兄弟の末っ子として生まれました。家業の祖である曽祖父は、電球をレンタル制にして販路を広げるなど、一風変わった行動でアイディアマンと言われていました。伊勢湾台風が襲来し、倒れたアンテナの修繕を手伝っていたのが小学4年生の時。それくらいしか、電気屋の息子らしいことをした記憶はなく、どちらかというと私の目は海外に向いていたように思います。

高校卒業後は、漠然とした外国への憧れから、名古屋のYMCAを経て、東京・四谷のJACI(日米会話学院)へ進みました。そこで英語を学んだのち、東京にあった貿易関係の企業で働いていました。

――焼物とは無縁の世界にいらっしゃった。

久野悟氏: 
私と有田焼の出会いは、有田出身の妻との結婚がきっかけでした。語学学校時代に知り合い、結婚を機に妻の実家の家業であった、陶磁器卸業の仕事に就くことになったのです。

それまで有田焼どころか、焼物全般の知識に乏しかった私は、「結婚の前に、まずは焼物のいろはを」と、焼きものの初歩から勉強することになりました。焼物自体の知識だけでなく、業界の流れ、流通の仕組みなどを教わった後、有田にやってきたのが昭和46年のことでした。

私が有田に来る前に教わったことは、「いろは」の「い」の字の、本当に初歩的な部分でしかなかったということは、こちらに来て気づきました。右も左も分からず、知らないことばかりでしたが、不思議と不安はありませんでした。それよりも、とにかく認められるよう目の前の仕事に精一杯でした。

飽くなき挑戦を支えたコンプレックス

久野悟氏: 
不安はむしろ、みずから作品のデザインに携わるようになってからです。その時から常に、産地外出身者としての不安感と言いますか、ある種のコンプレックスのようなものを抱えていたように思います。「これでいいのだろうか」人一倍よぎる不安な気持ち。しかしそれが、私を「もっと新しいものづくりをしなければ」と駆り立てました。

新しい取り組みの元に生み出された製品を、多くの人に届けるためには、新しい流通にのせる必要もありました。流通の基本には問屋さんがいて、卸業者がいます。問屋さんは、流通の途中で商品になるかどうかを見極めてふるいにかけるわけですが、新しい発想でつくられた製品は、なかなか問屋さんの理解を得ることは難しく、ラインナップにこぼれるものがたくさんありました。使い手が目にする機会を失えば、どんなにいいものを作っても、届きません。

――とにかく知ってもらわなければいけない。

久野悟氏: 
「どのようにすれば、我々の新しい有田焼を、ひとりでも多くのお客さまに見てもらえるのか」。悩んだ結果、踏み切ったのが通信販売でした。始めた当初はこちらと同様、通販業界でも今までになかった取り組みで、さまざまな取り組みを一緒になって応援してくれました。
そこで売り出したのが「有田焼タジン鍋」。多くの人の目に触れたこの製品は、評判が評判を呼び、当初の予定数を大幅に超えるものとなりました。以来今でも好評を頂いております。こうして新たなものづくりは、少しずつ世間に認知され、定番の製品となっていきました。

産地への感謝と恩返し
使い手に喜ばれる有田焼を届ける

久野悟氏: 
私は普段何気なく見る景色の中で、「有田焼なら、これをどういう風に活用できるか」をいつも考えています。実現が難しいものほど、チャレンジしがいがあります。上手く時代の背景とマッチするものもあれば、早すぎる場合もある。涌いた発想はすべて具現化するのがモットーですが、失敗もたくさんありました。売れると踏んで作ったものの中にも、鳴かず飛ばずのものもありました。

そうした中で励みになるのは、お使い頂く方々から届く声です。頂いたお便りには、生活に溶け込んだ製品の日常への想いが込められており、これは私たちの、日常の製品を手がけているものならではの喜びです。

また、みずからの発想を具現化できる土俵を与えてくれた、有田という産地に、快く受け入れてくださった職人さん達の存在なしには、私のものづくりは生まれませんでした。有田焼の仕事を通じて知り合った職人さんたちは皆、私が新しいことを始める時に腹を割って話せる相談相手でもあり、一緒に未来に向かって進む仲間でもあります。

――仲間と一緒に、どんな未来を走っていかれるのでしょう。

久野悟氏: 
仲間の数だけ、取り組みの数も広がります。すでに「有田浪漫グラス」として、その試みは具現化されていますが、ガラス製と磁器製のコラボレーションもそのひとつです。陶磁器の釉薬は基本的にガラス質ですから、陶磁器とはさして異素材というわけではなく、兄弟みたいなものです。そうした異素材と思われてきた製品との組み合わせでできること、今までガラス製品が主だったもの、例えば香水瓶など、有田焼の技術を活かせる場所は、まだまだたくさんあります。

400年という長い歴史と伝統を築き上げてきた有田焼。40年前、その仲間に加えていただき、今もこうしてこの地で一緒に有田焼に携わる者のひとりとして、有田の伝統の技術を大切にしながら、次代に続いていく未来のため、これからも「発想を具現化する」ものづくりに挑戦し続けたいと思います。