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江川悦子さん(特殊メイクアップアーティスト)「私の人生を変えた“狼男”との出会い」インタビュー

誰もが知るあのハリウッド映画から、邦画、テレビ番組、CMまで、あらゆる特殊メイクを手がけるメイクアップディメンションズ代表、特殊メイクアーティストの江川悦子さん。夫の転勤で渡米し「ある映画」に衝撃を受け、この世界に足を踏み入れ……。ゼロからの強い意思で志した「世界屈指の特殊メイクアーティスト」になるまでの軌跡を伺ってきました。(アルファポリスビジネス掲載記事です。写真/Hara・アルファポリス)

こんな話をしています……
35年「完璧なメイクが出来たらこの世界をやめるわ」と言い続けて、未だにやめられないまま今に至ります
『装苑』以外は受けていなかったので、落ちていればまったく違う仕事をしていたのかもしれません
「女性は自立していないといけない」というのが、絶対的な人生の目標でした
クオリティを下げてしまえば、すぐにライバルに追いつかれてしまう

江川悦子(えがわ・えつこ)氏プロフィール
アーティスト
株式会社メイクアップディメンションズ代表

徳島県生まれ。京都女子大学短期大学部家政科を卒業後、文化出版局『装苑』の編集職を経て、渡米。1979~1986年ロサンゼルス在住中、リック・べイカー氏が手がけた特殊メイクに魅せられてハリウッドにあるJoe Blasco make-up Centerへ入学。『ゴーストバスターズ』をはじめ、数々の映画制作にスタッフとして参加。リック・ベイカー氏の工房で経験を積み、帰国後、特殊メイクアップ・特殊造型の分野におけるパイオニア的ファクトリー『株式会社メイクアップディメンションズ』を設立。以後、アーティストとしてスタッフとともに走り続けている。

ハードルを上げ続けた35年

――(スタジオにて)著名人の顔型や、有名なキャラクターがずらっと並んでますね。

江川悦子氏(以下、江川氏): 東宝スタジオ内にあるうちのスタジオ(=「メイクアップディメンションズ」)は、特殊メイク、特殊造型、特殊かつらの製作をメインにやっていまして、それ以外にもSFXコンセプトデザインや関連するアドバイザー業務、それから映像企画制作まで幅広くおこなっています。今は、映画を四本と次の大河ドラマの仕事、その間にCMが三つと、慌ただしく動いていますね。

こうした仕事を、私も入れて9人のスタッフとアルバイトさんが数人でやっています。ちょっとずつ同時進行ですから、その采配を振るう「何でも屋さん」が私の役割ですね。予算もCG技術もなかった時代、日活の場所をお借りして八畳の掘建て小屋で始めさせて頂いたころから、全部何でもやっていました。

『メイクアップディメンションズ』という社名は、師匠であるディック・スミスの工房「make up illusion」が由来で、そこからインスパイアされて、「異次元(=dementions)を作る」という意味で名付けました。当時、そんな長い横文字の社名も珍しくて、まともに領収書を書かれたことがありませんでした(笑)。

それから35年「完璧なメイクが出来たらこの世界をやめるわ」と言い続けて、未だにやめられないまま今に至ります(笑)。――地元を出て進学、就職、その後、偶然の出会いから「特殊メイク」の世界に進んで、ハリウッドで学んだ技術を活かして日本で起業して……と、常に「そのときのベストを」という気持ちでハードルを上げ続けてきました。それを後押ししてくれたのは、幼い頃からの「外の世界へ」向かう目と、「女性の自立」に対する想いだったのかもしれません。

「外の世界を見てみたい!」
田舎から飛び出すためのロードマップ

江川氏:私は徳島の出身で、小さい頃はおとなしい性格でした。元来はおてんばで野山を飛んだり跳ねたりしていましたが、父が高等学校の教師だったこともあり、周りの大人たちの目を気にして「いい子にしていなきゃいけない。」という気持ちが、少しブレーキをかけていたように思います。

気遣いをする子ども、親の敷いてくれたレールを進んでいく「いい子」でした。兄と弟がいるのですが、女の子は私ひとりだったので、母は常に身の回りに置いておきたいという感じでしたね。

――親が敷いたレールを進む「いい子」が、どのようにして「外の世界」へ飛び出していったのでしょう。

江川氏:「いい子」だった私の心の中が「外の世界」へと向きはじめたのは、親の期待からの反動だったのかもしれません。だんだんと外の世界を見てみたいという気持ちが表に出てくるようになりました。転校生がやって来ると、その話にウットリしながら、「私の家も転勤族だったら」と憧れていました。

そのころの夢は、世界を飛び回る「カメラマン」(笑)。そこから「どうしたら外の世界を見れるだろう」と、少しずつ具体的に「外の世界へのロードマップ」を描くようになっていきました。

まずは四国から出ようと「近いからいいじゃない」と、半ば強引に親を説得して、京都女子短大の家政科に進んだのが最初のステップでした。家政科に興味があったわけではなく、「花嫁修業」を連想させ、いつか徳島に戻ってくることを期待させていました(笑)。

京都では寮生活でしたが、高台寺の近くの甘味処でアルバイトをしたりと、学生生活を楽しんでいましたよ。何事も経験で楽しかったですね。

そのまま短大を卒業すると同時に就職する流れでしたが、高校時代にファッション雑誌『装苑』を読んで、服飾の世界で生きていきたいと思っていたこともあり、今度は「あともう少し、学びたい。」と、また親を説得して、東京にある文化服装学院に進みました。

――徳島からどんどん離れていっています……(笑)。

江川氏:ロードマップ……目論み通りなんです(笑)。兄がいたので、両親もしぶしぶ承諾してくれたのでしょう。東京では板橋区の大山という場所で下宿していました。一階に住んでいた大家さんの子どもに、学校の課題も兼ねて上下のツイードのジャケットを作ってあげて、喜ばれたのを覚えています。

二年間好きなことを学んだ結果、憧れていた『装苑』を発行する文化出版局に、“目論み通り”就職できました。入社試験はラッキーなことに、自分の知っていることばかり出て、レポートも「友について」がテーマですらすら書けました。『装苑』以外は受けていなかったので、落ちていればまったく違う仕事をしていたのかもしれません

『装苑』では、周りから一番厳しいと噂の先輩についていました。その方は、大声で怒鳴ったりしない代わりに、静かに、かつ的確に指摘される方でした。さらに、「~になっているけど、あなたはそれでいいの?」と、ただダメ出しされるだけでなく、それを受けてどうするか。「自分で考える力」を身につけさせてくれた「厳しい」先輩でした。

私も多々注意を受けることがありましたが、元来の性格も手伝って「ミスが起こったことは仕方がない、次にどう活かそう」と、あまりその「厳しさ」を意識することなく働いていました。

周りからは「大変ね」などと言われていましたが、先輩からは「まだお給料出ていないんでしょう」と、お昼をご馳走になったり、最後は「同じ星座なんだね」と話すほど仲良くして頂いた思い出のほうが多いですね。そうして少しずつ仕事も覚えていき、プライベートでも結婚して「公私ともに順調」と、ここまではロードマップ通りでした。

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