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熊谷昌典さん(バット職人)「もうひとりの野球選手、バット職人誕生秘話」インタビュー

「会社の宝」バット職人との衝撃の出会い

――“好き”を諦めずに、大好きな野球の世界に居続けることができる。

熊谷氏:働く気満々、意気揚々と入社しました。最初に配属されたのは物流部門。東大阪にあった物流センターで2年間、最初はバットとは直接関係のない部署にいたんです。

福井にも物流センターができるということで、こちらに異動したのが、そもそものご縁というかきっかけでした。長野の田舎から大阪の都会生活を満喫していたので、縁もゆかりもない場所に赴任することに、正直最初はとまどっていました。

――最初からバットの道が開かれていたわけではなかった。

熊谷氏:本当に偶然と、人との出会いのおかげでした。福井の物流部門に異動した後、さらにこちらの生産部門に移ったのが、バット職人という仕事との出会いでした。物流部門と同じ敷地内にバット工場があり、そこではじめてバットの製造現場を目にした私は、釘付けになってしまったんです。

夏目さんという、のちにバット製作における私の師匠となる先輩社員の働く姿がとにかく格好よくて……。一本の木材が、バイトと呼ばれる専用のノミで削られ、みるみるうちに一本のバットに仕上がっていくことに、言葉では言い表せないような、高校時代に働く大人を見たとき以上の「憧れ」を抱いたんです。

ほとんどの工程が手作業で、日本にも数名しかいない熟練の工員が、会社の命運を握っている……。当時の工場長から「会社の宝」だと伺って、自分もそんな宝として生きてみたいと思うようになったんです。22歳のときでした。




「目で見ろ。失敗すればいい」終わりなき道の始まり

熊谷氏:憧れの仕事を見出し、すぐにバット製造の部門で働きたいと会社に異動願いを出したのですが、会社からはそう簡単に、「よし」とは言ってもらえませんでした。何度か掛け合った結果、出された条件は、福井にずっと住み続けられるかを問うものでした。それだけ、バット一本に向き合えるかという覚悟を問われたのだと思います。

また、この仕事は高速回転する木材に向かって刃を当てるので、常に危険が伴うことも、覚悟を問われる理由でもありました。また、長野にいる親への説得もあります。さんざん悩みましたが、「これを逃せばチャンスはない」と腹を決め、あらためて“志願”しました。

――新たな“バット職人”、誕生の瞬間ですね。

熊谷氏:バットには小さい頃から慣れ親しんできたつもりでしたが、実際の現場は私の知らないことだらけでした。そもそも、バットの原材料となる「丸太」のことを何も知らなかったんです。

節の位置や入り方、色のつき方など、木材に対する「目利き」で、バットの善し悪しは左右されます。丸太は自然の産物ですから、工業製品のように一律に品質が保たれたものではありません。産地や種類によって違うのはもちろん、同じ場所の同じ丸太でも、一本一本違うわけです。なので、まずは一日中、工場内で積み込み作業を繰り返して材料に触れながら、木材の性質を学ぶことから始めました。

ようやく材木のイロハが分かってきたところで、今度は師匠である夏目さんをはじめとする先輩について、実際に現場に入りました。

――少しずつ、ステップを踏まれています。

熊谷氏:木材の性質を学ぶところまで、頭で理解できるところまでは、なんとか進めたのですが、実際に身体を動かしてのバット製作となると、これがなかなかできない。先輩方と同じように道具を使って、同じ動作をしているはずなのに、どうしてもうまくできないんです。何度も、失敗してしまう。バットの形にならず「これじゃあ、擂り粉木(すりこぎ)だな」と言われたこともありましたし、貴重な材料を廃材にしてしまうことに、自分自身で感じる焦りもありました。そんな失敗ばかりの自分に対し、先輩方は

「目で見ろ。失敗すればいい」

と励まし続けてくれました。「結果に対して自分で考えて、失敗を繰り返しながら微調整を続けて近づいていくしかない。自然相手にマニュアルはないんだ」と。ようやく一人前のものができるまで、何年も年を越さなければなりませんでした。

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