シリーズ「ほんとのはなし」好評連載中

戦災の焼け残り『シェイクスピア全集』を読んで感じたこと(見田宗介氏/社会学者、東大名誉教授)インタビュー

出会いが人を形作るなら、本との邂逅もまた人生の大きな節目となる…。読書遍歴を辿りながら、ここでしか聞けない話も飛び出す(かもしれない)インタビューシリーズ「ほんとのはなし」。今回は社会学者、見田宗介先生の登場です。

(インタビュー・文 沖中幸太郎)

こんな話をしています……

ひとつの立場だけで物を見ちゃいけない、逆の立場から見ればそっちが正当になる
・「だいたい全部肯定しちゃうんです」。ついたあだ名が「恐怖の肯定男」
一度仮に認めた上でないと相手を理解できない。理解した上で批判するのが本当の批判

見田宗介(みた・むねすけ)氏プロフィール
1937年東京都生まれ。筆名、真木悠介。社会学者、東京大学名誉教授。1960年、東京大学文学部社会学科卒業。1965年、同大学院社会学研究科博士課程を満期退学。同大学教養学部で講師、助教授、教授を歴任し、多くの学生、研究者の指導にあたる。1998年に退官し、その後共立女子大学教授を務める。東大の超人気ゼミだった「見田ゼミ」を通し、現在活躍中の思想家、社会学者たちに多大な影響を与えてきた。近著として、60年代から刊行されてきた多数の著作をまとめた『定本見田宗介著作集』が刊行された。

「精神年齢18歳以上なら…」”見田”と”真木”の異なる心境


――『定本見田宗介著作集』が完成しました。

見田宗介氏: 最後の巻は1月に完成しました。今回は新しいものを大きく付け加えたものもあります。僕は現代社会論とか、比較社会学、未来社会論などをやってきたので、バラバラに見える仕事全体のつながりがどうなっているのかということがわかるように巻を並べて、そのつながりの説明をかなり書き足しました。楽しい仕事だったので、そんなに苦労したということもありません。今度の本は、自分が好きなようにどんどんやっていったものですね。僕は凝り性で、巻の構成やデザインで、編集者やブックデザイナーの方々に尽力いただいて、大変ありがたいと思っています。

――「真木悠介」の名義で書かれた著作もまとめられています。

見田宗介氏: 僕は本名の見田と、真木悠介で書く時は、思いというか、訴える心構えが少し違っています。真木悠介で書く方はあんまり読者を意識しないで、読まれなくてもいいから、自分が一番書きたいことを、誰かわかってくれる人がいればいいという感じで書いて、見田の方では、メディアに応じて具体的な読者を思い浮かべて書くんです。

見田で書く時考えるのは、なるべく若い読者に読んでほしいということです。今度の定本に入れたのは、50年間の仕事で、今の若い人が読んであんまり面白くなさそうなのは全部捨てちゃったんです。あとは書き方や造語も、今の若い人向けに書き換えたりしたものがあります。

未来を担っていくのはやはり若い人たちですからね。特に20代前半ぐらいまでというのは人生がまだ決まっていないんですね。だから、これから僕の本を読んで何かを参考にして、これからどういう生き方をするかとかいうことに役に立てればいいと思っています。

――若い世代に向けて。

見田宗介氏: 中高年になってしまうと、今更「これからこういう生き方を」と言っても、もう遅いということもありますからね。ただそういう人でも、気持ちが若ければいいので、冗談でよく「精神年齢が18歳の人であれば読んでほしい」と言っています。

そしてそれは「道しるべ」とか「羅針盤」ということではなくて、参考になればという気持ちからです。例えば僕の場合、近代世界以外の、インドやメキシコ、ブラジルなどを旅して歩いたので、「こういう世界もあるんだ」と感じていただきたい。「想像力の振り幅を広げる」ということで、これから若い人が社会のあり方を想像する時の材料の幅を広げるというような感じです。日本やヨーロッパ、アメリカにいてはなかなかわからないような世界というものを考える材料として提供するということが、考えの1つです。

もうひとつは、見晴らしをよくするということ。つまり、これから現代社会がどうなっていくかということについて、展望を開いておく。見晴らしが良くなった上でどういう方向を選ぶかということは当然各人の自由です。「こういうことを続けて行けば世の中こうなるんだよ」とか「必然的にこういうふうにはなるんだよ」というような、未来に対する見晴らしをよくするだけで、「こっちに来い」とか「あっちがいい」ということを述べるつもりはありません。

正義とは何か「ヒーロー」と「悪役」の視点から


見田宗介氏:
 僕は1937年生まれですから、子どもの頃はまさに戦時下で、うちの本がほとんど戦災で焼けてしまいました。偶然焼け残った中に『シェイクスピア全集』というのがあったんです。坪内逍遥が訳した古いもので、仮名が振ってあるんですよ。シェイクスピアの作品は、本物とわかっているのが37編ぐらいあるんですけれども、そのうちの21ぐらいが家にあって、それしか本がないものだから、ずいぶん読みました。9歳、10歳ぐらいの時です。非常に深いところで影響を受けたと思います。子どもの時だからほとんど筋書きとか名前は忘れちゃったんですけれども、その雰囲気は覚えているんです。

1980年代ぐらいに僕が大人になってから、色々現代文芸批評のきらびやかなシェイクスピア解釈を読んで「ああ、僕のシェイクスピアの理解というのは本当に幼稚なものだったな」とわかったんです。だから、専門家が読む読み方ではなくて、ただ子どもとして面白いから読んだだけですね。

結局シェイクスピアがなんで面白いかというと、主人公のヒーローだけじゃなくて、悪役とか脇役がたくさんいますね。その悪役とか脇役も全部いきいきとしているわけですよ。平凡な作家だったら主人公だけが立派で、悪役はただ悪いとか、脇役は適当に書いてある。でもシェイクスピアの作品では脇役も端役もそれなりの価値観を持って生きているわけですね。悪役からどう見えているかとかも書いてあるし、端役の人もなかなか哲学的なことを言ったりするんです。『ハムレット』に出てくる墓堀人とかも非常に深いことを言っているわけですね。

だから、人間というのはその人の性格とか立場によって世界の見え方が全然違う。ひとつの立場だけで物を見ちゃいけない、逆の立場から見ればそっちが正当になるんだな、という感覚みたいなものが、僕が影響を受けた点じゃないかと思うんです。「世界は舞台」というのは『お気に召すまま』の有名なせりふだけど、世界には色々な登場人物がいるわけですね。悪役と言われている人も、脇役も端役も、無名の民衆もいる。だけどそれぞれ精いっぱい生きているんですね。

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「恐怖の肯定男」は社会をどう見たか

見田宗介氏: ずっと後になって、団塊の世代の人たちが学生だったころ、1970年ごろに大学闘争がありました。その時に僕は糾弾される方の教授会にいたんですけど、学生たちと激論を戦わせていく時に、その学生たちが冗談に色々といろんな人のあだ名を付けるわけです。僕に対してどういうあだ名が付いたかというと、「恐怖の肯定男」。つまり何でも肯定しちゃう。

あのころ学生の中にいろんなセクトがありましたよね、「何々派」だとか「何派」とか。で「お前はどうなんだ」という討論があるわけです。そうすると僕は、あの派がこういうのもわかる、それから教授会がこういうのもわかると、だいたい全部肯定しちゃうんです。それで「お前は恐怖の肯定男だ」と言われた。でもそれが僕の立場なんです。つまりその立場になって一生懸命考えるんです。いろんな派の人はみんなまじめに考えているわけ。糾弾される教授会は教授会でやっぱりちゃんと考えていて、ちゃんと秩序を守らなければめちゃめちゃになるということでやっているわけです。だからそれぞれの立場に正当性があるわけで、そこを踏まえて理解しないで、糾弾するだけでは何も議論にならないだろうと思っていたんです。

――立場からの視点に左右されては本質に辿り着けない。

見田宗介氏: 僕が今でもよく言われるのが「お前は近代主義者なのか、反近代主義者なのか」ということなんですが、僕は近代も正しいと思うし、反近代も正しいと思うんですね。インドとかメキシコみたいな近代ではない文明もものすごく好きだし、もっと野性的な文明も好きだし、近代社会も好きだし現代社会も好きなんです。さっき言った若い諸君が想像力の振り幅を広げるということとかかわるのですが、色々なことをその立場に立って一度経験したり知ることが大事だと思いますね。「近代社会だけがいい」とか、「野性的な社会だけがいい」とか、「日本社会だけがいい」とか、「いやいや、インドが一番いい」とかではなくて、それぞれ一度は肯定した上で、どのように考えるかということがすごく大事だと思います。

例えば、丸山眞男という人がいるんですけれど、彼は一時神様みたいに尊敬されていて、その後全共闘に批判されて、吉本隆明なんかにも批判されて、それで今はもうほとんど読まれなくなった。僕もどっちかというと丸山さん的な近代思想、「西欧がいい」とか「近代がいい」というのには批判的な立場なんだけれど、でもやっぱり丸山眞男は読んでいると面白いんですよ。ちゃんとした思想家とか学者が書く本というのは、自分と立場が違っていても読みごたえがあるんですね。

自分と立場が同じ小物よりも、自分と違っても本物を読むとそれなりに得るものがある。もちろん最終的に丸山眞男を批判することはいいんだけど、とりあえず尊敬して読んでみると、初めてよくわかるわけです。わかってみた上で乗り越えるのは大いにいいと思うんですが、最初から「あいつはもう古い」とかいうふうに読むと、ずいぶん損をすると思うんです。いったんはほれ込まないと本というのはわからない。本に対する思いというのはそういうことだと思うんです。もちろん人間に対してもそうですね。中東問題もそうだし、日中関係もそうです。一度仮に認めた上でないと相手を理解できないんです。理解した上で批判するのが本当の批判だと思っています

理解と批判。共存共栄する「書籍の生態系」

ーー本の世界においても「活字vs電子」の二項対立が……。

見田宗介氏: 僕は、電子化は非常にいいと思うし、かつ、増えてくるべきだと思いますが、「活字か電子メディアか」という二項対立ではなくて、並行して共存共栄の形を取るということだと思うんです。
例えば、1950年代に「これからはテレビの時代だから、もう新聞や印刷メディアはいらないんじゃないか」という議論がありました。新聞界や出版界なんかで非常に心配した人もいるわけですが、テレビを見て、翌日の新聞でもっと深くバックを知るとか、結局今になってみると役割分担があるわけで、それぞれ特性があるので棲み分けになるわけですね。

もうひとつ言われていたことが、大相撲のテレビ中継が始まった時に非常に相撲界は心配して、「テレビで見ちゃったら誰も国技館に来なくなるんじゃないか」と心配したわけですけど、逆にテレビで放映されることによって、今まで相撲に関心を持っていなかった人も実物の相撲に関心を持って国技館にも来るということもありました。

そして今度はインターネットを含めて電子メディアに、逆にテレビ界が戦々恐々としている。でも地上波には地上波の役割があって、だから残っている。電子メディアは今よりもはるかにシェアを拡大すると思いますが、ではテレビメディアや印刷メディア、出版がゼロになるかというとそんなことはない。

書物には、物としての美しさがあるわけですよ。だから電子メディアで読んで、また書物でも読んでみたいとか、そういうことになると思うんですね。

ある森林なりの生態系の中に新しい生物が出てきて繁殖すると、ほかのものは駆逐されると思われるけれど、やがてエコロジカルな生態学的な均衡状態をもって整合するわけですね。だから大きく言うと活字メディアとテレビとか電波メディア、それからインターネットみたいな電子メディアのフィールドが確定されてきて、それで共存共栄していくんじゃないかというふうに思っています。

電子メディアで今ネックになっているのは著作権問題だと思うんです。それがきちんとされないから出版界でも心配したり、抵抗があったり、二項対立で考えたりする。ただ、音楽関係は今かなりきちっとなっていますよね。本に関しては、アメリカなんかでは動いていると思うんですけれども、日本でも、出版社も著者も納得できるルールができちゃえば、非常に楽しい共栄関係になるので、それを早く整理することが大事ですね。読者としてはそれだけ選択肢が増えるわけですからもちろんいいと思いますね。

――出版社の役割も変わっていくと。

見田宗介氏: 出版社にはふたつの面があります。ひとつはコンテンツを作るということ、もうひとつは現状では印刷メディアの特性に通じているということです。でも、コンテンツという点で言えばどちらでもいいわけです。現に主要な出版社はみんな電子メディアとか、インターネットに対応することに乗り出していますよね。それは当然のことです。つまり出版社にとって、印刷というメディア以上の生きがいはやっぱりコンテンツでしょう。文学でもいいし社会学でもいいし、あるいは歴史でもいいし、いいコンテンツを世の中に知らせるということが出版社の一番の生きがいというか使命ですから、それは必ずしも印刷にかけなくてもいいわけですね。

そのうえで二番目の印刷メディアということの特性も、既にある出版社ならそれだけノウハウもあるし、さっき言った棲み分けがなされれば需要はずっとあると思います。だから出版社にとっての生きがいであり使命であった良いコンテンツを知らせるという点では、印刷メディアのほかに新しいメディアができたというだけの話だと思いますね。インターネットでの有利・不利というのはあると思うんですけれども、それは一時的な問題で、要するに良いコンテンツが普及すればよいと思うんですね。

――電子メディアは、映像や音声など表現の幅も広がりますね。

見田宗介氏: 音声化することのプラスが僕は非常に大きいと思います。例えば早稲田でも子どもが授業を録音して家に帰って聞いたりしていますが、そうすると大学に行かなくてもよくなったりします(笑)。将来、それをさらに電子メディアで使えば、もっと今の若い子どもに役立つものになると思うんですね。ただ、小説なんかの散文だったら電子メディアで構わないけれども、現代詩みたいなものは、行分けの微妙なところをどう表現するかとか、音声化はちょっと難しいということはあると思います。

例えば読点は1秒空けるとか、句点は3秒空けるとか、改行とかは5秒空けるとか、「」(かぎかっこ)とか〈〉(やまがたかっこ)なんかでも、そういうルールが社会に定着してくれば、現代詩の分かち書きなんかでも自由に表現できると思います。そうすると今度は、詩人も微妙な表現で「、」と「。」の中間ぐらいだと2秒空けるとか、ここで言いきって10秒空けてほしいということもできる。世の中が慣れてくれば、そういった現代詩的な音声化に適さなそうな分野でも、逆にもっと自由になるとかいうこともあり得るわけだと思うんですね。短期的にはちょっとフリクショナルになるかもしれないですけれど、長期的には表現の可能性が広がるだけだと思っています。

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「伊豆の隠れ家」で続ける思索

見田宗介氏: 僕は伊豆半島の南端の方に隠れ家があって、だいたいそこで年に半分以上閉じこもって、ときどき用事があると出てくるという感じなんです。ボロ小屋ですけれども、周りは非常にいい場所で、そこに蔵書を半分ぐらい持ってきていて。量はそんなに多くないけれど、いる可能性がある本を持ってきています。それを電子化すればもっと楽かもしれません。そうすると、ますます東京にいなくなるかもしれませんね(笑)。

そういうことで、どちらが良いということじゃなくて選択肢、見晴らしを示すことが重要です。それからどっちへ行くかというのは人それぞれの好みもあるんです。僕自身もわがままな人間だから、人から強制されて「こうだ」と言われるのはいやだから、自由に選べる選択肢を広げるというのがいいと思うんですね。

今、関心を持っているのはふたつ。ひとつは現代社会はどこへ向かうかということ、もうひとつは未来社会論なんですね。このふたつはつながっている問題なんです。ちょっと乱暴な言い方をしますけれども、近代社会というのはそろそろもう終わりに近づいている。このまま行ったら資源的にいっても環境的にいっても人類はもたないので、何十年か先は破たんすると思います。そうすると、やっぱり持続可能な幸福な社会の展望が開けないとだめなわけですね。要するに、永続し得る非常に幸福な社会というもののイメージを確定しようとしています。

今度の『定本』で言うと、第1巻の名前は『現代社会の理論』になっていますが、その終わりの「現代社会はどこに向かうか」という部分で、ベースとなるものをコンパクトにまとめています。それから第7巻が『未来展望の社会学』というもので、未来の人間の見晴らしを述べたんですね。そのあたりのことをもとにして、もうちょっと具体的に展開してみたいと、この2、3年ぐらい思っています。(2022年4月1日逝去)