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山際康之さん(工学博士)「技術者魂が見せるノンフィクションの新世界」インタビュー

戦前、プロ野球創成期のわずか3年半しか存在しなかった幻の球団「ライオン軍」を描いたノンフィクション『広告を着た野球選手』が話題の、山際康之さん。現在、東京造形大学教授として教鞭を執りながら、雑誌の連載コラムなどの文筆活動をおこなっています。専門の工学分野では『組立性・分解性設計』、『サステナブルデザイン』の研究成果をまとめた著書も出版されています。今回初となるノンフィクションの世界に挑んだ山際さんから、技術者魂溢れる熱い想いを伺ってきました。

こんな話をしています

  • 文字の書き順を習う基礎的な授業に出席することができず、形から覚えた
  • 初めから理論があるわけではなく、成功や失敗の経験を、客観的に整理し分類して「手順」にする
  • やってみて自分の体で覚えて、知恵にする
  • 入社したての頃は、本当に生意気で世間知らずの新入社員だった
  • 人のやらなかったことを誰よりも先にかたちにする精神こそ、ソニーで学んだこと
山際康之(やまぎわ・やすゆき)氏プロフィール
ソニー株式会社入社後、ウォークマン、ビデオなどの開発を経て、組立性・分解性評価設計法の開発によるモノづくりをソフト化したビジネスを推進する。以後、エコデザインの戦略、設計に従事し、製品環境グローバルヘッドオフィス部門部長を務める。また、通商産業省国庫補助家電リサイクル委託事業家電製品協会研究員、東京大学非常勤講師、学校法人桑沢学園(東京造形大学、桑沢デザイン研究所)常務理事などを担当してきた。 著書に『広告を着た野球選手: 史上最弱ライオン軍の最強宣伝作戦』(河出書房新社)、『分解デザイン工学: バラバラにすることで価値を生む』(東京大学出版会)など。

理論へと繋がる成功や失敗の経験

――“サステナブルデザイン”について伺います。

山際康之氏: “サステナブルデザイン”とは、環境問題などを解決し持続可能な社会を実現するための考え方や実践を行なう分野です。ここでのデザインとは、形、色など意匠的なものだけではなく、社会やビジネスモデルなどを構築するという意味で、かなり広範囲な意味を持っています。

ここ東京造形大学という美大で、サステナブルデザイン専攻というコースを設置したことをきっかけに担当しています。単にデザインや美術を学ぶのではなく、社会で起こっている問題を解決するための切り口として、サステナブルについて学ぶところです。 私の研究分野はサステナブルいわゆる環境問題におけるリサイクルの領域ですが、もとのベースは設計工学です。

設計工学とは、家電製品や自動車などの工業製品を、技術者がどのような思考で、構想から図面までおこし、そして製品化まで行なうメカニズムを考える学問です。コンピュータや計算機を使って出てくる理論ではなく、経験工学、つまり製品設計者がやってみた事を検証して、思考のプロセスを解明していくわけです。それが理論・体系化になっていきます。

おそらく「モノづくり」は全てに言えることだと思いますが、初めから理論があるわけではなく、成功や失敗の経験を、客観的に整理し分類して手順にしていく。自分で経験する事がとても大事で、それは私の小学校の頃の体験とつながってきます。



自ら考え 経験を重ねるクセ

山際康之氏: 小さい頃の私は体が大変弱くて、小学校に登校できずに、病院と自宅を行き来していました。今でも学生から、私の書く文字は「記号みたいだ」とよく言われますが、それは文字の書き順を習う基礎的な授業に出席することができず、形で覚えたからなのです。

毎日、微熱状態が続き、体力もなく立っていられないので、寝て過ごしていました。横になっている間に、色々と妄想し、それで毎日絵を描いていました。例えば、絶対に脱走できない刑務所の平面図を書いたり、捕鯨船がクジラを捕って船の中で解体し、缶詰にして出荷するまでの工程を断面図で書いたりしていましたね。物事の仕組みを考えるのが好きでした。 またその頃、唯一楽しめる場所が書店でした。学校に行けないので、書店が教室みたいなもの。今日はこの本のここからここまでをパラパラ読もう、といった感じでした。子供用の本は限られていますので大人が読むような本も読むのですが、漢字が読めないので箇所はスキップしてイメージで読んでいました。お茶の水の書店街。今は、書店も少なくなりましたが、当時はとても賑わっていた場所で、学生さんもたくさんいました。その後、回復して体力が戻り、学校へ通えるようになったのは、小学校5、6年生ぐらいだったと思います。

――長いブランクがあったんですね。

山際康之氏: やはり勉強のブランクを埋めるのは大変でした。自分のペースで経験し、かみ砕くようにして理解していくしか方法はなく、それが結果的に、研究者として働く上で活きています。知識として耳に入れる事はまずなく、やってみて自分の体で覚えて、知恵にする。そういうことを、小学生の頃からしてきたのだと思います。そうした試行錯誤の経験と妄想による好奇心が、ソニーへの入社を後押ししてくれたと思います。

社外への“技術供与”で社長賞

山際康之氏: ソニーは自分に凄くマッチした会社でした。入社したての頃は、本当に生意気で世間知らずの新入社員でしたよ(笑)。社内のありとあらゆる事に対して、「こんなやり方じゃダメだ」などとケチをつけていました。当時の部長が、私の知らないところで部門内の人たちに、「山際が生意気なことを言えるような職場環境を作る事がウチの会社にとってとても重要だ」と言ってくれたそうで、後に聞いたときには、これこそ、自由闊達で愉快なる会社、ザ・ソニーだと思いました。

はじめはウォークマンやビデオの製品設計などを行なっていましたが、「モノづくり」の現場を経験したいと思っていたので、自ら「地方の工場に行かせてくれ」とお願いし、当時、発売したてのCD(=コンパクトディスク)や8ミリビデオの工場で、実際の作業を観察し続けました。

この時、私にはひとつのアイデアが浮かんでいました。モノづくりの知識、ノウハウをすべて描きだして、製品設計の方法論としてひとつにまとめたら売れるのではないか、それがビジネスになるのではないかと思ったのです。しかし、その話をまわりにしても、誰にも相手してもらえませんでした。

それで、残業時間や、土日、正月返上でアイデアをカタチにすべく、体系化づくりに没頭しました。技術の世界は、一番しか認められません。誰かに先を越されたらと考えると、夜も眠れませんでした。 当時ソニーが工業用のロボットを外部に売り出す時期で、「モノの作り方のノウハウをパッケージ化したのですが、ロボットと一緒に売ってみたらどうですか」とその部門に提案し、営業の名刺を作ってもらって、自ら売り込みをすることに。そのノウハウ、いわゆる製品設計の方法論を最初に持って行ったところがカメラメーカでした。

――そのカメラメーカの反応は……。

山際康之氏: たいへん高価な金額で、まさかの「契約します」というお返事でした。あわてて、ソニーに戻り、体系化したノウハウを見直したのを思い出します。 所属していた部門の周囲からは、「なぜソニーのノウハウを外へ出したんだ」と、大目玉を食らいました。ところが、その年、そのカメラはたいへんな話題となり、そのメーカの社長が、わざわざ成功したという挨拶のためにソニーに来訪したことから社内は大騒ぎになりました。

こうしたモノづくりのノウハウ、いわゆるソフトがビジネスになるということで、社内の見方は一転して、社長賞をいただきました。なんせ、ノウハウというソフトは原価もなく、売り上げれば、そのまま利益になりましたから。いまでこそ、ゲーム、音楽、映画などのソフトと、情報機器などハードとの両輪がビジネスで重要だといいますが、ソニーがソフトをビジネスにした先駆けで、ロボットというハードビジネスを後押ししたのは、当時としては画期的だったと思います。

その後、国内、海外80社以上の電気、カメラ、情報機器、自動車などの企業と契約をして、ノウハウの供与、コンサルタントなどを通じて多くの製品を生み出しました。

「ソニーという看板を下ろした時に、どのぐらい実力があるか、試してきなさい」というのが、ソニー創業者である井深大さんと盛田昭夫さんの教えでした。兼職OK。外でどんどんバトルをしなさいと。だから私たちの同僚には歌手としてCDを出した人やオリンピック選手もいます。外に出るという事に対しては、むしろ推奨していたというか、そこでつけた実力を、今度はソニーの仕事にいかしてほしいという事でした。

活かされるものづくりの精神

山際康之氏: 私が最初に外に出るきっかけとなったのは、モノづくりのノウハウビジネスで、いろいろなメーカで製品を生み出しているという噂を聞きつけた出版社からの依頼に応じて本を出したことからでした。専門書でしたが、それを読んでくれた大学や官公庁の方から、お声をかけて頂けるようになり、そこから仕事も広がってきました。

――今回は、初めてノンフィクション形式で書かれています。

山際康之氏: ちょうど工学の視点からの経営戦略、マーケティングの研究を進めていこうという時期で、当初はコーズマーケティング(社会貢献に結びつける販売促進)について研究書にまとめるつもりで取り組んでいました。ところが、進めていくうちに、戦前のプロ野球の創成期の、ライオン歯磨きを売っていた小林商店(現、ライオン株式会社)率いる、「ライオン軍」に辿り着いたのです。奇想天外な発想で、史上最弱のライオン軍が、最強の宣伝作戦を展開していった事実、そこに関わる人間のドラマにぶつかったのです。「この話を、限られた読者ではなく、広く一般に伝えたい!」と欲が出て来ました。そうして出来上がったのが、『広告を着た野球選手』(河出書房新社)でした。子供の頃、野球が好きで、野球の本を書いてみたかったという気持ちが沸き出てきたのも事実です。

実はこれ、出版の関係で編集の段階で約100ページ削っているんです。けれど、その100ページは、ちゃんと次回に活かされます。実は、この本づくりにも、ものづくりのスピリットが生きているんです。私は、ひとつ物事を作る時に、三つ先まで企画しておきます。今回の本を考えた時点で、もう3冊先まで考えていました。ソニーの製品でも3世代先まで見越した中長期の戦略を立案したうえで開発するのがセオリー。本も1冊書いただけで満足しちゃうと、連続性がなくなって広がりがなくなると思うのです。点ではなく、線でつないで広がりをつけるためには、最初から三つぐらい、常に考えておくことが必要だと思います。本を書くのもモノづくりですから。基本はソニーで学んだことが生きているんです。

――第一弾、のあとにまだまだ続くんですね。

山際康之氏: これはモノづくりの宿命ですが、第一弾を出版した瞬間、自分の頭の中は、もう次の作品へとチェンジしていました。もっと新しい事を積み重ねたいという欲望にかられるのです。モノづくりで重要な事は、新規性だと思います。新規性があってこそ、ものを生み出す意味がある。既に誰かが書いたテーマでは、付加価値がないと思っています。ですから、新たな本を出すということは、どんな些細な事でも、1行でも新しい発見する事が大事で、それこそがノンフィクションの価値だと思います。その新規性をどこまで出せるかで、次の本の価値が決まると思います。人のやらなかったことを誰よりも先にかたちにする精神こそ、ソニーで学んだことですから。

――ものづくり精神が詰まった本になっているのですね。

山際康之氏: 時代を経たものなので、100%ノンフィクションというのはあり得ないとも思っています。いくつかの事実を証明する資料と資料の間の時間、抜け落ちた時間や空間が必ずあるはずで、そこに書き手である私の想像や思いがどうしても介在してきます。 今回の『広告を着た野球選手』の中で、戦時中「ライオン」という言葉が敵性英語で使えなくなった時、それでもライオンは広告をやめなかったとしたのは、先に資料ありきで書いたものではありません。当時の連盟の鈴木龍二が、主人公のライオンの広告部長に、「時代が時代なので、ライオンという言葉は使えなくなりました」と言ったと仮定したとき、ふと、私だったら「はいそうですか」と引き下がれるかなと考えました。否、決して使うことをやめない、なぜならビそれがビジネスマンの本能だと思ったからです。 それで、きっとやめていないだろうと仮説をたてて、それを実証する資料を発掘し始めました。こうした仮説に基づくプロセスもモノづくりには必要で、新たしい発見につながるからです。そうして、敵性英語禁止後も「ライオン」と入った広告入りの入場券を発見して、「ああやっぱり、ほらみろ!」って。サラリーマンをなめるなよ、と(笑) 今回の本では、この部分に最も私の思いが入っています。ビジネスマンは、どんな危機においてもそう簡単にあきらめませんから。これを書いた後に、職業野球を見たという方にお会いしました。そこで、また新たな発見がありました。

今までお会いした事がない分野の方、おそらく技術の分野だけでは縁がなかったであろう人々と出会えたのは、とても嬉しいことです。こうした新たな出会いを通じて得た、新たな発見を、これからも活かしていきたいと思います。また、執筆においても、ものづくりの精神と、そこに携わる楽しさを感じながら、新たな境地に挑んでいきたいと思います。