出会いが人を形作るなら、本との邂逅もまた人生の大きな節目となる…。読書遍歴を辿りながら、ここでしか聞けない話も飛び出す(かもしれない)インタビューシリーズ「ほんとのはなし」。今回は国際政治学者、浜田和幸先生の登場です。
(インタビュー・文 沖中幸太郎)
こんな話をしています……
・学生の頃、雑誌PLAYBOYのヒュー・ヘフナーに手紙を書き続け、アメリカまで会いに行った
・本は命の泉。本に出会うというのは、自分の人生と向き合うということ
・原動力は「生まれて良かったな」という想いから
世界中を旅した青年期
浜田和幸氏: これまで120近い国を回りました。東京外大に通っていた頃はアルバイトをしてお金を貯め、一番安いチケットを手に入れ、ペンパルで親しくなった人のところに泊めてもらいながら世界を旅していました。
当時は多くの雑誌に「文通の相手、求めます」というコーナーが必ずあったものです。「日本ペンパル協会」というのもありました。国内だけではなくて、世界中から文通相手を紹介してくれるので、台湾やアメリカなど、さまざまな国の人と手紙をやり取りしていました。ある程度親しくなってからホームステイをさせてもらい、さらに関係が親しくなりました。そういうことから始まって、世界の国々を直接訪ねて回ることになったわけです。
――小さい頃から活動的だったのですか?
浜田和幸氏: そうでもありません。父は国鉄の職員で、実業団野球の世界では花形ピッチャーで、母は農家の出身です。実は、わが家には本が1冊もなく、世の中に「本」があるということも知らずに育ったものです。とにかく、小・中学生の頃は野球少年でした。でも中学2年の頃に父が肩を壊して、ノンプロの世界でやっていけなくなったのです。
昨日まではファンに追いかけられる人気稼業だったのが、今日からは駅のトイレ掃除係という具合で、取り巻く環境が一気に変化した感じでした。母はそれを悲観して具合が悪くなってしまうし、家の中が一挙に暗くなり、「野球だけで生きていくのは厳しいものがあるな」と子どもながらに思いました。そういうことから、遅まきながら勉強もしなくちゃいけないと、中学3年の時に一念発起、勉強を始めたわけです。参考書や問題集を買わなくちゃいけないと、初めて地元の本屋さんに行った時、「あ、本っていうものがあるんだ」と認識したわけです。
その本屋には旺文社の世界と日本の名作文庫が置いてあり、有島武郎の『生まれ出づる悩み』を見つけて、「こんな世界があるんだ」と衝撃を受けました。「こういう知らない世界を旅するには本は欠かせない」と思ったのです。それ以降、学校の図書館や古本屋さんにも通い、受験勉強の傍ら手当たり次第に乱読しました。
地元鳥取県の米子東高校というところに進学してからは三島由紀夫の本をよく読みました。ちょうど高校生の時に、市ヶ谷の自衛隊で三島の割腹自殺があったので、なぜ彼がそういう道を選んだのか、その思想遍歴をぜひ知りたいと思って、彼の本を手に取ったことがきっかけでした。特に『美しい星』には想像力を刺激させられました。そのストーリーに触発され、舞台となった能登まで実際に行ったくらいです。
最初は三島をはじめ日本の作家の本を読んでいたのですが、だんだん英語も勉強するようになり、海外のものも読むようになりました。一番衝撃を受けたのは、三島由紀夫の割腹自殺の時に彼の首を森田必勝が切り落とした生々しい写真が載っていた雑誌です。首と胴体が分かれている写真をアメリカの『TIME』という雑誌が載せていたんです。日本では新聞でも雑誌でも切り落とされた首の写真なんてとてもじゃないけど、載せませんよね。その雑誌を、米子東高のグラウンドのすぐ下にあった教会で見たんです。
ブラウンさんという神父さんが、簡単な英語で聖書を教えるという教室を開いていまして、普段は簡単な英語で書いてある聖書を読んで、キリストの教えを学んでいたのですが、聖書の勉強が終わると様々なアメリカの新聞や雑誌、本などを見せてくれたんです。そこで三島の写真を見ました。
――衝撃の出来事だった。
浜田和幸氏: すごい衝撃で「世界やアメリカは、同じニュースを伝えるにしてもここまで入り込んで、こんな写真まで載せるのか」と、日本で見ている新聞や週刊誌などとは全然違うなと正直思いました。そういうことがあったので、大学に入ってからは、世界を自分の目で見、異なる文化や価値観の人たちと直接会ってみたいと考えていました。
それで大学は、東京外国語大学に進みました。専攻は中国語。当時「100万人の英語」という旺文社がスポンサーの文化放送のラジオ番組の東京からの電波が、鳥取県には夜だけ届き、聞くことができたのです。田舎ですから予備校もなく、大学受験のためにそれを一生懸命聞いていると、中国大陸からの北京語放送も混ざって流れてきます。そうやって無意識のうちに、中国語を耳にしたので、自然に馴染んだのかも知れません。
「中国には3000年の長い歴史があり、日本も漢字はもとより法律や都市づくりのノウハウなど大陸文化を吸収してきました。今は文化大革命で混乱してはいるけれど、いつまでもそういう状況は続かないだろう。これからは隣国である中国と仲良くする必要がある」と、その当時に強く思った記憶があります。
――大学を卒業後は、新日鐵に就職されています。
浜田和幸氏: 当時の稲山会長が、戦争中の日本と中国の関係性に言及し「一種罪滅ぼしという意味で最先端の鉄を作る技術を教えよう」という発想に立ち、ドイツと協力して製鉄所を造ることになりました。そういう現場で働けば、日中関係の強化に役立つに違いないと思い応募した次第です。
中国側の意向は「日本から技術協力の支援が得られるなら、最先端のものが欲しい」ということでした。そこで、中国から数百人規模で現場の工長さんや作業長さんを招いたのです。日本の技術を教える前に、まずは日本人のものの考え方や規律を学んでもらうために、寮に入ってもらい一緒に生活をしながら日本式の価値観を学んでもらいました。
しかし当時は中国に技術を出すということに対して、一部の勢力からは「とんでもない」という意見がでていました。当時、広畑にある製鉄所で中国の研修生を受け入れていたのですが、会社から「君たちが盾になって中国の人たちを守りなさい」と言われましたものです。ある意味で命がけでしたね。
「カズユキ・ハマダを客人としてもてなせ」
PLAYBOYヒュー・ヘフナーを動かした50通の手紙
浜田和幸氏: 中国語にどっぷりと浸かった大学生活でしたが、最初に選んだ海外旅行の行き先はアメリカ合衆国でした。当時のアメリカ文化で一番象徴的だったのは『PLAYBOY』という月刊誌。一番心を動かされたのはそのインタビューページでした。毎号、政治家やビジネスマン、それからスポーツマンや文化人などの、とてもディープなインタビュー記事が載っているんです。
ジミー・カーター大統領もインタビューを受けて、「奥さん以外に魅力的な女性がたまたま通りかかった時、何か気持ちが動きませんか?」というような質問に、すごく素直に答えていました。でも、結局それが仇となって彼の政権が陰るようになってしまったんですけれども……。
そういった政治的なインパクトをもたらすぐらいのインタビューを『PLAYBOY』は載せていて、日本にはない大胆なアプローチに感銘を受けました。そこで、ペンパルの経験があったこともあって『PLAYBOY』の創業者であるヒュー・ヘフナーに話を聞くために手紙を書いたんです。
――日本の学生からの突然の手紙。返事はもらえたのでしょうか。
浜田和幸氏: それが書いても、書いても、返事がこない(笑)。それでも10通が20通になり、20通が30通になって。ところが、50通目ぐらいの時になんと返事がきたんです。
「君はあきらめが悪いみたいだな。しつこいから見込みがあるかもしれない。ぜひこっちに来い」という内容でした。喜び勇んで、すぐにアメリカ行きを決めました。
それまで海外旅行の経験はなく、やっとの思いでなんとかニューヨークの空港に辿り着いたのですが、着いて連絡するなり今度は「グレートゴージュというところにプレイボーイのリゾートクラブがあるから、そっちに来い」と言われました。それがどこにあるのかもわからず、とにかくタクシーの運転手に行き先を告げてそのまま向かいました。後に分かったことですが、私をそんな遠くまで送ってくれた運転手は、ちょうど勤務時間あがりだったのですが、断ることなく無線で「参ったが今日は泊まりがけになりそうだ」と言っていたそうです。
タクシーも無事拾えたものの、指定された目的地は、ニューヨークから百数十キロメートルも離れた場所で、着いたころには財布はすっからかんどころか、足りない状況でした。フロントで事情を話すと、ヒュー・ヘフナーとつながり、タクシー代はもちろんの事、その後の宿代まで「カズユキ・ハマダを客人としてもてなせ」という指示のもと、すべて面倒を見てもらいました。その太っ腹ぶりに感激しましたね。
――「ヘフナーの客人生活」……。
浜田和幸氏: 雑誌はアダルトでしたが、そのリゾートクラブは家族連れの客に加え、企業の人たちも研修会場として利用しており、すこぶる健全(笑)な雰囲気でした。みんながスポーツや食事を楽しみながら、明るい社交を繰り広げている。家族の絆や、団体、企業の人たちのネットワークの輪を大事にする場を、プレイボーイクラブが提供している現場を目の当たりにし、驚いたものです。
サービスする側もマニュアル化が進んでいて、お客さんに対してどういう姿勢、ポーズでメニューを見せ、お酒や料理をサーブするか、といったことに至るまできちんとトレーニングされている。
プレイボーイクラブはとても待遇が良いことでも知られていました。「バニーガール」と呼ばれる接客の女性たちはみんな、自分の夢を持っていて、その夢を実現するためにクラブで働いているのです。お金を貯めて自分の目指す大学に進学し、自分の願う仕事を追い求める人がたくさんいることを知りました。実際、当時出会ったバニーガールの一人がその後、ワシントンのNIH(国立衛生研究所)で研究部長になっていることを聞かされ、大いに納得したものです。
頭で考えたことを実地のコミュニケーションで確認していく
浜田和幸氏: ピーター・ドラッカーの『すでに起こった未来 変化を読む眼』は印象的でした。まずネーミング。これからの未来がどうなるのかということは、みんな関心があるでしょうが、この本では「未来というのはもうすでに起こっているんですよ」と書かれているんです。この間、安倍総理がスイスのダボスに行きましたよね。ちょうど今年は第一次世界大戦100周年で、「日中で今向き合わないと、下手すると大きな戦争になりかねませんよ」というような発言に尾ひれが付いて、問題になりました。この本には「1914年当時の旧ソビエトとドイツとの交渉に関する文書を見ると、お互いが何を考え、何を求めているのかという情報は山のようにあったことが分かる。そういった情報はあったのに、コミュニケーションが成り立っていなかったのがこの戦争の原因だ」ということが書いてあるのです。相手が何を求めているのかということを理解する情報はあるのに、それをきちんと受け止めて「相手を理解しよう」という努力がお互いに欠けていたと彼は分析しています。
ソビエトはソビエトの中で、ドイツはドイツの中で、おのおのの国家指導者が国民との間でのコミュニケーションすらしっかり取っていなかったということを考えると、確かに今の日中関係はかなり厳しいと言えます。「中国との対話のドアを常に開けている」と安倍総理はおっしゃいますが、それがきちんと相手に伝わっていなければいけないと思います。日本側も中国側も「自分たちの立場の方が歴史的に正しいものだ」と言って、文書あるいは記録を出してきても、相手が「そうじゃない」と言ってしまうと、過去の歴史から学んでいないということにもなります。情報は有り余るほどありますが、まずは国内で、もちろん海外でも、お互いにコミュニケーションを図っていくことがとても重要だと思います。
――有り余る情報をどのように扱うか。
浜田和幸氏: 私は以前から「ナイアガラの滝のごとく情報は降り注いでいる」と思っています。でも、過去に起こったことを確認するための情報と、これから未来に起こることを予測する、備えるための情報というのは、分けて考えないとだめだと思います。ドラッカーの『すでに起こった未来』を読み直してみて、政治の役割とか政治家がコミュニケーションを取ることの重要性に関して、改めて考えさせられました。単なるデータが知識や情報になったりするわけだから、その部分に対して、どうやって自分なりの理解を深めていくのかということが大事。相手がどう反応するかということを含めて、自分なりの情報のレーダーの感度を常に研ぎ澄ませて、自分のコミュニケーション能力を高めていかないと独りよがりで終わってしまう。そうすると、せっかく良い運が近寄ってきているかもしれないのに、それを見過ごしてしまうことになるかもしれない、と思うのです。コミュニケーションということを考える時は、ピーター・ドラッカーが大いに参考になります。
浜田和幸氏: 自分の頭で考えること。そして自分で考えたことを多様な人々とコミュニケーション、対話を通じて確認していくということがとても大事だと思います。
限られた時間の中で、納得できる道を生きる
浜田和幸氏: 本というのは命の泉というか、書いた人、つくった人たちの深い思いが詰まっています。ですからそこからどういうものを引き出すかというのが、ある意味、読者の責任だと思うのです。人間が生きていくためには栄養素が必要です。人間は考える生き物ですが、その考えるヒントを全て自分の中から見つけるというのは不可能。だから、本と向き合って考えるヒントをもらうのが一番確実な方法だと思います。著者は自分の全精力を投入して毎回毎回苦しみ、もがきながら書いていくわけですから、読者にそれを汲み取ってもらえるといいなと思います。読み手の側も真剣勝負で著者と向き合っていただきたい。そういう意味では本に出会うというのは、自分の人生と向き合うということでもあるのだと思います。
私の原動力は「生まれて良かったな」という想いから涌き起こります。スティーブ・ジョブズも言っていましたが、人生は限られている。1日24時間、それをどれだけ自分で満足できる形で生かすことができるか。だから、やるんだったらとことん自分が納得できる道を目指そうと思っています。「学ぼう」とか「知らないことをもっと知りたい」、「広い世界を自分で見てみたい」という思いが非常に強いです。
そして、日本人として生まれた「運命」をどう世界に活かしていくのか。自分の生まれ育ったこの日本という国が、世界から信頼され尊敬されるように努力すること。日本には素晴らしい歴史もあるし、人の和、そして自然と共に生きるという素晴らしい価値観がありますよね。世界を唸らせる技術もあるし、まじめな国民性もありますから、そういう日本独自の発想というか美意識のようなものが世界の標準になってくれたら、もっともっと平和で安定した調和の取れた世界になると思います。そういう流れをつくっていくのが、自分に与えられた使命だと思っています。
2014年というのはかつてない大きな変化が日本だけではなく、世界で起きると思います。今も激変を続けている環境問題、エネルギー問題、食糧問題など、多種多様な問題が重なって複雑に絡み合い、「起こってほしくない」と思うようなことも起こる可能性があります。だから原発の事故、あるいは大災害などから目をそらしていれば、それでなんとなく済んでしまうというような逃げの姿勢ではだめでしょう。辛いことや嫌なことから目をそらさず、問題にしっかり向きあって考えることで、新しい解決策が見いだせると信じています。
日本がこれから世界と向き合う時に、アベノミクスも素晴らしいとは思うのですが、もっとオールジャパンで応援していくという形にならないといけないと思っています。世界が直面している人口爆発、エネルギー危機、食糧争奪戦などの困難な問題についても、日本の独りよがりではなく、みんなで力を合わせて知恵を出し合い、新しい未来を共に創造していくという形になれば、意外な打開策が生まれるはず。私は政治家という立場から、今後も信念をもって、そうした未来社会の実現に向けて取り組みを続けていきたいと考えています。