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田中ウルヴェ京さん(スポーツメンタルトレーナー)「今日のベストを尽くして成長する」

上級メンタルトレーナーの田中ウルヴェ京さん。シンクロ選手としてソウルオリンピックで銅メダルを受賞後、米国大学院留学を経て学んだコーピング理論は、今やスポーツ界のみならず、多くのシーンで必要とされています。そんな京さんも、選手としてのセカンドキャリアに悩んだ時期もありました。どのようにして、自分の限界を広げていったのか。「日々のベストを尽くして成長する」という京流コーピング術とは。
こんな話をしています………
今日のベストを尽くせば、明日のベストにはすでに隙間があって、そこから「余力」が生まれる
自分では、自分の良さも悪さも「自分の目」でしか見えない
「人をリスペクトすること」、「寛容の心を持つこと」がウルヴェ家の決まり
田中ウルヴェ京(たなか・ウルヴェ・みやこ)氏プロフィール ※インタビュー当時

1967年、東京都生まれ。日本大学在学中の1988年にソウル五輪シンクロ・デュエットで銅メダル獲得。その後、日本代表チームコーチ、アメリカ五輪ヘッドコーチアシスタント、フランス代表チーム招待コーチなどを歴任。91年より渡米、カリフォルニア州セントメリーズ大学大学院健康・体育・リクリエーション学部修士課程修了。また、アーゴジー心理専門大学院にて、認知行動理論、コーピングを、サンディエゴ大学院にて、パフォーマンスエンハンスメント、アスレティックリタイヤメントを学ぶ。 2001年起業。アスリートからビジネスパーソンまで広く一般にメンタルトレーニング指導をおこなう。著書は50冊。報道番組でコメンテーターを務める。 著書に『1日10分で“なりたい自分”になれる「幸せ習慣」の作り方 』(講談社)など。

公式サイト⇒ポリゴンhttps://www.polygone.jp/

自転車“少年”時代

――講演や執筆、コメンテーターなど、様々な場でご活躍中です。

田中ウルヴェ京氏: もうすぐ50歳になりますが、年を重ねれば重ねるほど、どんどんやること、やれることが多くなってきています。20代の時「これ以上、忙しくできない」と思っていたのに、30代になったら、会社を起こしていました。

そのときも子どもがまだ小さかったから「これ以上できない」と思っていたのに、40代になるとまた、新たなことをしている……その連続です。

今日のベストを尽くせば、明日のベストにはすでに隙間があって、その次の日も余力が生まれるんです。

頑張っていれば、ちょっとずつ余裕ができてくるように、膨大な脳の処理能力を少しずつ増やしている感覚があって、それが私にとって一番楽しいことです。

そのときは「ああ~!」って、いっぱいいっぱいになっていても、あとで振り返ったら「なんだ、たいしたことなかった」と思えるんじゃないかと、常に思っています。

これは、シンクロナイズドスイミング(以下、「シンクロ」)をやっていた時と同じで「こんな息の苦しい足技はできない」と思っていても、精一杯1年練習を積めば、その息苦しい足技がいつの間にか難なくできるようになるわけです。

――ずっと、伸びしろを広げてこられたんですね。

田中ウルヴェ京氏: 3歳の時にプールに通い始めた頃から、始まっていたのかもしれません。その時はすぐに辞めたのですが、6歳の時に「もう一度水泳教室に通いたい」と自らお願いし再開しました。1ヶ月も経たないうちに400mを泳げるようになって、タイムもどんどん更新されていきました。

でもまだまだ子どもだったからでしょうか、ただまっすぐ前に向かって泳ぐだけというのが面白くありませんでした。そんな4年生のある日、水泳教室の横でやっているシンクロ教室の様子を見ることができました。

最初の印象は、何かクルクル回っている、綺麗で面白そうだな、というものでした(笑)。 小学校1、2年生のころは、白金を中心に、恵比寿、広尾くらいまで、色々な秘密基地を作って、自転車で走り回っていました。

小・中・高と通った聖心女子学院で仲の良かった友だちは長い黒髪にスカートで赤い自転車、私はというと髪はショートカットでいつもジーンズ、青い自転車に乗っていました。親しかった白金台の交差点交番のお巡りさんには、いつもかわいいガールフレンドを連れている男の子、だと思われていたそうですよ(笑)。

男の子に間違われるような外見でしたが、内心は、2月の早生まれだったので、いつも「追いつかなきゃ」と焦っていました。幼稚園の時の10ヵ月の差というのは、子どもにとっては大きいものです。末っ子だったので、家でも「待って~」が口癖でした。

学校でも偉そうにしていたけれど、心の中ではいつも慌てていて「頑張んなきゃ」と思っていました。小学4年生まではそういった感じだったような気がします。 高校3年生までは、そのまま聖心女子大学に進んで、学業と選手の二足の草鞋を履きたいと思っていました。

当時は美智子皇后陛下も、よく学校にいらしていると聞き、素敵な卒業生のお一人と憧れていましたから。当時はキャリアというよりは、素敵な女性になるための勉強もして、思慮深い女性になりたかったのです。

――どうしてまた、思慮深さを(笑)。

田中ウルヴェ京氏: 「思慮深いスポーツ選手」って何かいいじゃん!と(笑)。でも、高1から日本代表になり、海外遠征で2週間くらい休んだりと欠席も多く、「二足の草鞋はダメ、学業がおろそかになる生徒を推薦できない」ということで、聖心女子大学の推薦を頂けず、日本大学の体育学科に進みました。

メダリストの先にあったもの

田中ウルヴェ京氏: 日本大学の体育学科に進んだ理由が、オリンピックに出るため、メダリストになるため、だったわけですから、その意味では、二足のうちの一つだけにしたということなので、「こりゃあ、死んでもメダリストにならないとシャレにならない。4年間は、全てをこれだけに懸ける!」という感じでした。

でも嫌なことはない、ストレスにもならないと自分の中で決めていたので、苦労という感じではありませんでしたよ。ただ、そういう心理状態では、体が疲弊します。鼓膜には穴が開いたし、疲労骨折で両肘は折れたし、体の色々なところにガタがきていましたが、当時は「痛くない」と思う根性というか、考えないことにするというコーピングしか知りませんでした。

プロとしてやっていくのであれば、絶対にダメですが、オリンピックは大学4年の時だけだったので、そういう無理がきいたのだと思います。 選手時代は心理的にも、身体的にもプレッシャーを感じていて、息が苦しいスポーツだし、筋肉疲労は毎日のこと。だから無意識のうちに、色々なコーピングをしていたんだと思います。

振り返って思うのは、当時は、メンタルのなかでも、とにかく必死になるということだけに集中していたということ。「この先生の声は、神の声だ」と決めると、良いか悪いかは別として効率は良かったように思います。「ここで悩んでも、意味がない」と決めたのは、大学1年の時だったと思います。

――その努力は、銅メダル獲得という形で実を結びます。

田中ウルヴェ京氏: 素直に嬉しかったです。ホッとしたという気持ちも大きかった。これまでの選択や決断がすべて○だと思えることは有難いことです。

当時はチヤホヤしてもらえるのも嬉しかったですよね。道を歩いていてサインや握手を求められたりすると「あ、自分ってカッコいい」って思っちゃう人間でした(笑)。

だから反面、引退してから数年経って、チヤホヤ度が落ちついてしまった頃からは、「私がメダリストであることは変わらないのに、なんでみんな冷たくなるの?」なんていう気持ちを持っちゃうような人間でした。

今振り返れば、そのころの色々な心理葛藤が、今の自分のキャリアにつながっているわけで。「あの時、色々なコンプレックスを抱えて、モンモンとした時期を過ごしたことは、良かったことだったな」と思えますが。 こういう楽観的というか建設的、客観的な考えに自分を持って行けたのは、引退して10年経ったころでしょうか。

21歳で引退した時は、まだ今よりも“井の中の蛙”でした。さらにオリンピックでメダルをとったことで、その業績以上に「自分はすごい、偉いんだ」と勘違いしていました。シンクロでメダリストになったけれど、それ以外では単なる若者だということが、当たり前なのに受け入れられなかったんですね。

Always thinking “why”で進む

――選手を引退されてからは、日本代表のコーチに就任されます。

田中ウルヴェ京氏: 88年ソウルオリンピックの翌年に引退して、そのままコーチになりました。理由は特になく、恩師の先生に「コーチとして選手を育成することが、あなたは上手でしょう」と言われて、「はい」と。

正直、指導は楽しかったです。ただ、指導者としての勉強は怠っていたかもしれません。メダルも獲得したので、技術も戦術も教え方も、シンクロ選手の身体トレーニングも、医者よりもわかっているから学ぶ必要がないと思っていました。

でも実際は、自分の体をどうすればいいかを知っているだけで、運動生理学や機能解剖学、さらに、身体機能にも影響する心理学など、学問的アプローチの仕方をわかっていないので、色々な性格や体質、筋肉や骨格の子を見た時に、適切な指導ができていなかったのだと、今は思います。

ただそういう反省って、「自分はわかっている」と思っている時は、しませんからね(笑)。 3年くらいコーチを続けていると「自分は人間として何なんだろう?」と思うようになりました。

当時、電話でも「シンクロの田中です」と言っていましたが「シンクロ以外、なくていいんだろうか」と。シンクロ界の人に聞いても「それが物事を極めるということだ」と言われましたが、「極めるって何だろう?」と、さらに色々考えるようになりました。

24歳の時にJOCコーチ留学で2年間、アメリカに行く機会があって、大学院で色々なことを学びました。そして、その時に出会った、ウルヴェさんというフランス人(現在のご主人)から哲学を学びました。

「“なぜ”を、いつも考える」ということを教えられて、それ以降は「なぜ、私はこうなんだ?」とか「なぜ、今日は楽しいのか?」ということをやりながら、十二単を一枚ずつ外すかのように、あるべき自分という鎧を少しずつ剥がして、結果的に心理学に興味を持つようになったのです。

――Always thinking “why”と。

田中ウルヴェ京氏: そう、常に「なぜだろう?」という疑問を、本当に小さなことから考え始めました。

例えば「今日はなぜ運転することに決めたのか?」とか「なぜ、今赤信号で止まっているのか?」とか、そういう本当に些細な事柄も意識的に考えるようにしました。

留学当初はサンフランシスコ郊外のウォールナットクリークというところに住んで、セント・メリーズ・カレッジ・オブ・カリフォルニアの大学院に通っていました。計6年半のアメリカ留学のうち最初の4年半を過ごし、最初に修士を取得した学校です。

その後、96年のアトランタオリンピックでコーチをして、98年まで代表チームのコーチをやって、99年に息子が生まれてから専業主婦になりましたが、その年から2001年まで、アリゾナのアーゴジー心理専門大学院で認知行動理論を勉強しました。その時は、子育ても充実していて楽しくできました。息子が寝た後、夜の9時半から朝の3~4時までが学習タイムでしたが、まったく苦にはなりませんでした。

自分の悩みを社会に活かす

――株式会社ポリゴンを起業されたのが、帰国後の2001年

田中ウルヴェ京氏: そうですね。帰国してから、テレビの解説などでシンクロには関わっていましたが、スポーツ心理学を学んできたので、メンタルトレーナーとして、シンクロ以外の自分を作りたくて、事業化したのが最初です。

14年前は「怪しい」とか「ああ!集中力ね」などと、ネガティブなイメージや、限定的な捉えられ方しかなかったように思います。「メンタルトレーニング=宗教」のようなイメージで「メンタルトレーニングを信じていればメンタルは強くなりますか?」と聞かれたりもしました。

「メンタルトレーニングはトレーニングですから、あなたがトレーニング法を学び、日々鍛えるんです。私は、あなたの状態にあわせて、様々なトレーニングを提示しますが、選んで行動継続するのはあなたです」と言ったりしました。日本では今でも、メンタルトレーニングについて説明を丁寧にしていく必要があると思っています。

アメリカ時代の自分の専門は、「競技引退後の選手のキャリアプランニング」でした。これを14年前に日本で色々な競技団体で説明した時は、ほとんどの人に「ダメだ」と言われました。「引退なんてネガティブな言葉を選手に使うな」とか「選手は引退後のことなんか考えたら、やる気をなくすだろう」と言われましたが、それは逆です。いつかは必ずくる競技引退のイメージの具体化が、今日の集中力を高めることは先行研究で明らかです。

ようやく今では、「選手のセカンドキャリア」について、選手が現役時代から考えることの重要性も広まってきました。

「自分はオリンピックのメダリストだけど、こんなに次のキャリア選択で悩んだ。オリンピック選手や一流の選手であればあるほど、アイデンティティの葛藤があります」と言っても、「選手として成功した人、例えばメダリストとかに必要なわけがない」とか、「引退した後に、どこかに就職の世話をすればいい」というような風潮でした。

でも、2002年にJリーグが「田中さん、キャリアプログラムを一緒にやりましょう」と言ってくれて、そこから徐々に変わってきました。

それで、Jリーグで始まり、そこからJOCでも普及していきました。今考えると「時期が早かったのかな」とも思います。

私の言いたかったことを、解釈してくれて実践する方々がいたおかげですね。 専門分野であればあるほど、知らない人にそれを伝えることの難しさを感じます。私はその点で本当に自分のことがイヤになります (笑)。

コーピングにしてもメンタルトレーニングにしてもシステマティックに自分が理解しておくこと、そして端的に説明できることが必要です。このあたりは、テレビのコメンテーターとして仕事をさせてもらうなかで、すごく勉強になっています。

執筆は最高の自己表現

――『恋も仕事も結婚も!わくわくハピネス術』には、そんな京さんの想いが込められています。

田中ウルヴェ京氏: 10年以上も前の本ですが、初めての著書でもあり、私が一番気に入っている本のひとつですね。36歳の時の著書ですが、「書く」という作業は思いを表現できるという点は、シンクロのルーティーンと同じでした。

音楽に合わせて、田中京を表現できるのがシンクロの素敵なところです。それと同じで、私にとって本を書き記す行為は、脳の活動を自己表現できる方法で、その時の自分の無意識を出すことです。

私の本は、実践スキル的な本が多いのですが、“あとがき”はかなり心を込めて書いているので、すごく長くなってしまいます。“あとがき”は自分の知らない無意識の自分が出てくる、一番楽しい時間なのです。

“まえがき”は、シンプルに何が書いているかを書かなければいけないので、技術的アプローチが必要です。編集者とも話さなければいけない部分で、出版社の意向も入れたいと思っています。だから私は「“あとがき”は何を書いてもいいですか?」と編集者に必ず聞きます。

原稿を校正しながら、なんとなくノッてきて「最後にこの本では!」と頭の中にパッと降りてきたものを書きます。すごく熱く書いてしまうので、編集者も苦笑いしながら「ま、このままでいきましょうか」と(笑)。自分が後で読んでも「おお、誰が書いたんだろう?」という印象を受けることもあります。

――編集者は、京さんの想いをどのように受け取り、まとめられているのでしょうか。

田中ウルヴェ京氏: 編集者は、客観的に私と読者をつなげてくれる存在です。著者の私はそりゃ主観的になってしまうわけで、独りよがりになることもあり、熱くなりすぎたりすると読者は面倒くさいと思うだろうし、冷たすぎてもダメ。ちょうどいい塩梅を、すごく丁寧に冷静に判断してくれます。

特に相性がいいなぁと思う編集者は、言いにくいことも言ってくれる人。そして、原稿をボロボロに赤くして、バッサリ切るけれど、そこに論理的根拠がある人です。

やっぱり、読者の役に立つ本でないと届きません。自分では、自分の良さも悪さも「自分の目」でしか見えないし、編集者に聞けば聞くほど学ぶことができるので、そこにきちんと論理的根拠がある指摘は嬉しいものです。

――最新刊『お母さんのイライラ解消・感情の整理ができる本』が、出版されました。

田中ウルヴェ京氏: コーピングを利用した、0歳から2歳くらいまでの、新しい母親・父親たちに向けての子育て本です。母親、父親として、子どもとどう関われば親も子どももハッピーになるか、というようなことのメンタルスキルや、ストレスに対する捉え方、解消法、対処法を書いています。私も、子どもが小さい時は、色々と苦労しました。なかなか眠ってくれない時にイラついたり、心が疲れて悲しくなって急にエレベーターで泣いてしまったり、電車に乗っていて、子どもが泣き止まない時、どうコーピングしたかとか、自分の経験も書いています。

――ウルヴェ家の掟みたいなものはあるのですか。

田中ウルヴェ京氏: 主人は、息子と娘には、まず怒りません。カミナリが落ちるのは、ウルヴェ家が大事にしている「人をリスペクトすること」、「寛容の心を持つこと」このふたつをおろそかにした時です。子どもたちがこの二つを欠いた言動をすると、彼はすごく怒ります。それは、私も大切なことだと思っています。

今日のベストを尽くして成長する

――コーピングを軸に、新たな挑戦が続きます。

田中ウルヴェ京氏: この春から、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科博士課程の女子大生(!)になりました。このインタビューにもご登場されていた前野隆司先生がいらっしゃる研究科です。土日に勉強をすることになるので、家族に迷惑をかけるかもしれません。そもそもそんな挑戦をしたいなんていったら反対されると思ったので、夕ご飯のたびに何となく「学生に戻りたいかな…」とか、小出しにして言ってました。

――メンタルトレーナーらしく……(笑)。

田中ウルヴェ京氏: 心を読みながら少しずつ(笑)。それで少しずつ既成事実を作って「合格したよ」と言ったら、家族みんなすごく喜んでくれました。

自分の暗黙知を形式知にするということを、そろそろしなくてはいけないと思い、ここで学ぼうと思いました。正直、長年、博士を取得することは「足の裏の米粒」だったんですよね。この言葉、あるスポーツ心理学の先生に教えていただいて気に入ってるんですが、つまり、とらないと気持ちが悪い。でもとったからってべつに大した得にもならない(笑)。

でも、ここでの学びを活かして、近い将来、自分のコーピング理論をしっかりまとめたいとは思っています。これを読めば、これまで私がアスリートへのメンタルトレーニングとしてやってきたコーピングとは何かが整理されている集大成のような本。これから数年、それに向かっての日々は、ストレスですが(笑)、それこそコーピングを駆使して頑張りたいと思っています。