東京大学先端科学技術研究センター中邑研究室客員研究員、武蔵野美術大学空間演出デザイン学科准教授を務めるアーティストの鈴木康広さん。鈴木さんが子どものころ日常に感じつつも言語化されなかった「浮遊したままの経験や記憶」に言葉を与えられた数々の作品は、人々の想いにリンクし、共感されています。鈴木さんの歩みを辿りながら、本のこと、活動、そしてこれからについて伺ってきました。
こんな話をしています……
・子どもの頃に感じたけど言語化できなかった「浮遊したままの経験」や、心の中にあったものを作品として再現
・時間軸を外したことで連続性が消滅し、以前描いたものが別のものに見えたりする
・限られた時間で学ぶために、ありとあらゆる本を読んだ
・本は体験型の再現装置である
・つねに過去のことに対して「油断してはいけない」。歴史のように、情報化した瞬間に人は「油断」しがちで、自分の体験に結びつかないままに終わってしまう
鈴木康広氏プロフィール
1979年静岡県生まれ。2001年東京造形大学デザイン学科卒。 日常の見慣れた事象を独自の「見立て」によって捉え直す作品を制作。 公共空間でのコミッションワーク、大学の研究機関や企業とのコラボレーションにも取り組んでいる。 瀬戸内国際芸術祭2010では全長11メートルの《ファスナーの船》を出展。 2014年には水戸芸術館、金沢21世紀美術館で個展を開催。 武蔵野美術大学空間演出デザイン学科准教授、東京大学先端科学技術研究センター中邑研究室客員研究員。 2014毎日デザイン賞受賞。作品集に 『まばたきとはばたき』『近所の地球』(青幻舎)。 【公式サイト】http://www.mabataki.com/
浮遊する“魂”に言葉をのせて
――素敵なアトリエにお邪魔しています。
鈴木康広氏:東京大学先端科学技術研究センター中邑研究室に所属しており、敷地内にあるこの研究室をアトリエにしています。ここで日々の作品制作や打ち合わせなどおこなっています。時間の使い方が自由でしたが、3年前から武蔵野美術大学で教員も務めていることもあり、それ以前よりは社会的といいますか、規則のある生活を送っています。
ただその社会のリズムに合わせる生活には多少の危機感も感じていて、そもそもそうした社会のルールが理解し切れなかったのが、ぼくがアーティストという生き方を選ぶきっかけでもあったわけで、作品制作の発端となる不協和音を感じにくくなるんじゃないかなと、少し心配しています。
ぼくは、自分の考えや思いを伝える言葉の代用として作品を作っているという意識は一切なく、子どもの頃に感じたけど言語化できなかった「浮遊したままの経験」や、心の中にあったものを再現したい。それは、自分自身が感じたことに対して返事をしてあげることだと思うのです。
そうした浮遊したままの経験や記憶をノートに収めています。ここにあるものは、2001年から15年間のものです。初めの4冊だけナンバリングしていましたが、その後は順番を付けなくなりました。ここには日付も時間も書いていないので、いつ開いてもリアルタイムなのです。時間軸を外したことで、連続性が消滅し、以前描いたものが別のものに見えたりすることもあるわけです。久しぶりに開くと、既に自分でも何を描いていたのかわからないような状態でペンを止めておくことで、新たなアイディアとアイディアが出会うことができます。
このグレーの帯がお気に入りだったのですが、いま販売されているものは黒になってしまいました。18歳の時に上京して18年間経ち、経験と活動が一区切りしたので、そろそろ“黒帯”にしようかなと思っています。
スーパーの棚で定点観測
鈴木康広氏:ぼくの実家は浜松でスーパーマーケットを経営していました。店の商品棚がぼくの目の高さの定点観測台でした。身長が伸びるにともない、見えてくる棚も徐々に変わっていきました。見える商品が変わっていくことから世界が少しずつ広くなっていった感覚を覚えています。
ぼくは小さいころ、文章の読解力が低く本を全く読めませんでした。記号や物語によって広がる世界を積極的には広げず、自分の目で見て体で感じる、限られた等身大の世界で過ごすことに集中していました。そのかわり、モノや人で溢れかえった場所に身をおいていたことで、子ども時代のぼくにとっては膨大な情報量が自分の中に飛び込んできました。
文字を読むことが苦手だったので、国語はおろか算数も社会科も勉強全般が苦手でした。「言葉」という、本来は感覚から生まれたはずのものと自分の経験が噛みあわずに、ずっと違和感を抱いていました。言葉の発生に立ち会っていないぼくたちは、後参加なのにどうしてスイスイと読めるのか不思議で仕方ありませんでした。
走るのは速かったのですが、それ以外はだいたい人より遅れていました。しかし、間がちょっとずれているおかげで、みんなが既に知っていることも、あとで「そういうことだったのか!」と、大きな発見をしたかのように感じられて、いつしかそれが喜びに変わりました。
また、うちは代々商売をしてきた家で、高校を卒業したら家業を継ぐのが普通の感覚としてありました。親が勉強に関しては寛容だったことも、ぼくが自分のペースで過ごすことが出来た一因だと思っています。
ようやく見つけた光
鈴木康広氏:中学生になってはじめて勉強に取りかかりましたが、文字よりも写真などが気になって時間を忘れてじっと見入ってしまったり、理科の資料集の図を見れば、矢印の書き方が気になって書き写しはじめたり、教科書に書かれたひと言が気になって問題を解くことに気が向かなかったりと、自分なりの翻訳作業みたいなことに時間を使いすぎてしまったせいか、勉強はスムーズに進みませんでした。
今わからないことをとりあえず脇において、できることから進めるという能力が欠けていたんですね。 高校では、「国語が苦手だから理系」と消去法で進路を選んできましたが、数学もだめ、物理もだめということで、どんどん選択肢が無くなっていきました。当時の自分にとっては大問題でした。高校3年の夏期講習が終わろうとしていた段階で、やはり数学と国語で勝負するのは無理だろうと確信しました。
ところが丁度その頃に、友達の友達が美大に行くという噂を耳にして、その手があったかと、目から鱗が落ちる思いでした。しかし、「高3の秋だし、もう9月だし……。」となかなか踏ん切りがつかず、美術予備校の門を叩いたのは夏期講習の最終日で……。
――……そこでようやく門を。
鈴木康広氏:美術アトリエは夏期講習の会場の近くにあったのですが、友人と自転車で通り掛かったとき、一旦立ち止まりつつ、勇気がなくてそのまま帰ろうとしたんです。通り過ぎた次の交差点で信号が赤になった瞬間、「やっぱ俺、行ってくる」と引き返して、ようやく門を叩くことになりました。今でも覚えている人生の分かれ道でした。
そこは、「緑屋美術研究所」という美術予備校で、古い趣のあるアトリエでした。1階が画材屋になっていたのですが、そこにいたおばさんに生徒と間違えられて、「もう授業は始まっているから」と。「まだ生徒ではありませんが……」という声もかき消されて、上階のアトリエに通されました。そこで、先生に事情を話して、即、入ることになりました。
もともと絵を描くのが好きではありましたが、専門的に学んでいたわけではなかったので、自分がどのくらいの腕前かもわからず、ただ美大を目指すには相当な遅れをとっていたことだけはわかっていたので、食事やトイレに行く時間も惜しんでデッサンに取り組みました。
イーゼルを立てて描く鉛筆デッサンは初めてで、鉛筆の持ち方から覚えました。受験までの3、4ヶ月集中してデッサンに取り組み、東京造形大学デザイン科に合格しました。 大学に入学してからも、とにかく人よりずっと遅れていた分、「時間が足りない。全部知りたい」と、今までの時間を取り戻すように勉強しました。自分の目の前にあるのは、長いアートの歴史。人類が始まって以来、人は何故絵を描いたのか、という広大なスケールの中で、現代に生まれた自分の感覚で過去のものがどう感じられるかを4年間のうちに自分なりに問い続けました。
高3の秋にどこも行く場所がなさそうだと諦めた上でようやく見つけた道でした。「名字も鈴木だし、特別な作家になるとは思えないけれども……」とにかく4年間しかない。そのリミットの先は崖っぷちという感覚でした。限られた時間で学ぶために、ありとあらゆる本を読みました。
日常を創作の現場に変える、圧縮再現装置としての「本」
鈴木康広氏: このころはじめて、読書を通して「知」に対する関わり方やそれらを活かす技術を学んだのだと思います。その引き金になったのが「都市論」という講義で扱われた、東京を題材にした数々の本や作品でした。それまで自分で買った本といえば、宮沢賢治の『風の又三郎』だけでしたが、赤瀬川原平さんと尾辻克彦さんの『東京路上探険記』、藤原新也さんの『東京漂流』や、映画だと小津安二郎の『東京物語』などなど……ほかにも地図や演歌に描かれた東京などを学びました。
ぼくは田舎からの上京組だったので、東京という場所自体が面白い場所であり、テキストとして最高の現場にいる興奮と、それを生活の中で読み解いていくことのスリリングさを体感しました。 とくに夏目漱石の『三四郎』は、そこに描かれた芸術論や科学論に衝撃を受けて、初めて本を読破するに至りました。
近代化、都市、西洋と日本の出会いにおいて、日本人がどう生きていくべきかということを、三四郎を主人公としてぼくに追体験させたのです。 本が底知れぬ高度な圧縮力を持つこと。それを読書によって個人が生活の中で解凍していくことで、日常を創作の現場に変える力を持っています。
本が体験型の再現装置であることに気づいてからは、それまで無縁だった図書館にも足しげく通うようになりました。 徐々に読書や表現の技術を習得しながら、18歳までの経験を、そこから同じく18年かけて、子ども時代の「浮遊したままの経験や記憶」を、ようやく形にすることができて、今に至ります。
18年の形 言葉になった感覚
鈴木康広氏:最初に『まばたきとはばたき』という本を作ったときは、自分の本をどういうものにしていくべきなのか、まったく定まっていませんでした。きっかけは編集者の方に声をかけていただいたことなのですが、作品集を作りたいというシンプルな気持ちで、本をつくることの意味も何もわかっていませんでした。
当時、デザインのプロジェクトでお世話になったグラフィックデザイナーの原研哉さんに相談に伺ったのです。原研哉さんとの出会いは、大学生の頃に応募した文房具のコンペの受賞式でお会いしたのが最初で、さらにその翌年に応募した作品では原研哉賞をいただきました。その後、展覧会の会場で偶然の再会があり、竹尾ペーパーショウ2004「HAPTIC」への参加によって、作品集の制作へとつながっていきました。
本の相談をする時、まず作品のことをよく知ってもらわなければと思い、それ「以前」のぼくの活動を伝えるために、スケッチと言葉、作品の仕組みを描いた図面のラフを持参しました。そうしたら、原さんがそのスケッチがとてもいいと言ってくださり、本に載せるつもりもなく、ただ作品のことを伝えるために描いた絵をメインにすることになりました。 「本」という形を元に、原研哉さんに導かれ、自分の頭の中にある考え方の進み方をかたちにしていく中で、自然体という言葉の意味することや自分自身のアートワークそのものを新鮮な目で捉え直すことができました。
『まばたきとはばたき』は、原さんがデザイナーであり編集者として、自分を素材にして調理する方法を体験として学ばせてくれたものだと今は思っています。
――『近所の地球』は、いつでも、どこからでも読むことが出来る本だと感じました。
鈴木康広氏:この『近所の地球』というのは、原さんから教わった形式に習いつつ、初めて自分でかたちにした本です。テーマは、ぼくが2001年にノートに書いていたものでした。この本は、ぼくが子どものころから疑問に思っていたことや、言葉に対するコンプレックスなど、作品制作というかたちで自分のリズムで掴んできた世界の見方をまとめたものです。『まばたきとはばたき』は長い検討の結果、作品を掲載する順番を制作の時系列にしましたが、今回は章を立てて作品を分類することで、僕自身の考え方を伝える本になったと思っています。
アーティストからデザイナーへ 生まれ変わる新たな挑戦
鈴木康広氏:子ども時代から18歳まで、わからないことばかりの中で感じていたことや思っていたこと、それらを思い出しながら形にした創作の18年間が過ぎました。自分の感覚や思いを対象化し、表現する手段がようやく見つかった36歳の今、ひとつの区切りを迎えているのだと思います。
――浮遊させてきた18年間と、それを形にしてきた18年間。これからはどのように。
鈴木康広氏:2017年の5月には宮城県の石巻市、牡鹿半島で完全に屋外でのおこなわれる展覧会、リボーンアート・フェスティバル(Reborn-Art Festival)に参加することになっています。 美術館の中とか美術表現という枠が取り払われて、本当に何もなくなった所に人間がどう関わっていくかということを考えざるを得ない状況での試みです。 何もなくなった状態……自分自身も今まで感じられなかったことを感じられる自分になる。
そのためにも、今まで身につけてきたものをもう一度、脱いでいく時期にきているのだと感じています。 また、ぼくがいいなと思ったものや、作りたいものを発表するのは実はすごく簡単で……これからは何かを必要とする人に対して、ふさわしいかたちで応え得るデザイナーにならなければいけない局面もあると思っています。要求に対して最善の形で応えるのが職能としての「デザイン」だとしたら、果たしてぼくにそれができるのかはわかりません。
今、広告をはじめとするデザインの仕事は、すぐに結果が必要に見えます。そして前提として良い評価を求めています。どれだけ売れたかとか、どれだけの人が見てくれたとか、成果がすぐ出ることに合わせた技能になってしまっています。そうした限られた技能のためにデザイナーの能力を伸ばすのではなく、もっと幅広く、未知の分野にも挑戦すべきだと思うのです。そのこと自体を指摘し、実際に見つけるのもアーティストの役割かもしれません。
実際に、何百年も前に描かれた絵が今の人の心を掴み、多くの人の心に何かを与えていること。それに際して、芸術の「時間を超えた価値」という見方が正しいのかどうかもわかりません。自分の生きている時間の中で体験できないことも、実際に出会えない人にも、何か影響を与えうるということです。可能性はまだまだありそうです。
つねに過去のことに対して「油断してはいけない」と思っています。歴史のように、情報化した瞬間に人は「油断」しがちで、自分の体験に結びつかないままに終わってしまうのです。
とはいえ、リアルタイムでは分からないことばかりです。今のことをいま分かる人なんていないからです。もちろん、現在は一瞬で過去になりますけど、その、分かるまでの時間の捉え方に、さまざまなバリエーションがあると思います。そして“懐かしさ”の感覚がひとつの手がかりになると思っています。
「空気の手紙」という作品は、まさにそんなことに気づくきっかけになりました。保存した空気が5分後だったら、躊躇なく抜けるものも、朝とってきた空気をその日の夜に抜こうとしたら、もったいないと思い、抜けませんでした。人によって懐かしさを覚える時間は違うし、おなじ5分という時間でも、10年ぶりに会った人同士の5分であれば、まったく意味合いの異なったものになってくると思います。時間の感じ方や価値が発生することを感覚的に捉える実験をこれからも日常の中で続けていきたいと思っています。
でも、そういうことは20 世紀の初頭に、マルセル・デュシャンが「パリの空気」という作品で空気自体を対象化するということをもうやっているわけです。ぼくらがやっていることの前には、すでに先駆者がいるんです。ですから「アートの歴史としては終わっている」とも言えるわけで、美術評論家に言わせれば「もうそんなのデュシャンがやっているよね」とか「ヨーゼフ・ボイスがもう社会彫刻と言っているね」となるわけです。
ぼくが考える現代美術は、まったく新しいものではなく、過去の繰り返しでもなく、たとえ同じ手法でも自分たちの時代の感覚として、また違った視点でやってみるべきことだと思っています。それが油絵でいうと画家が取り組む模写なのかもしれません。過去にこそ「油断」してはいけないなと思っているんです。 今の時代の空気や感覚でやることによってまったく異なる次が見えてくる。過去におこなわれたことの本当の意味や、別の価値を体感できるかもしれない。既に人がやったことでも、それを新たな視点で捉え直してみること。油断せず、行動に移す精神をもち続けていきたいと思います。