今日みたいな強い風と、横殴りの雨だった2010年、7月1日。10年前の今日。
「みんなそうしてるから」で有給消化もせず、ボーナスの直前に退職。退職願いを出したのが、5月のゴールデンウィーク前だから、辞めるのに2ヶ月近くかかった。
「連休の間、よく考えろ」と言われ、ありがたいことに何度か慰留された。当時の上司やお客さんとは、その後も何度か会い、今も連絡を取り合う。故郷のような場所。
でも前年の東京出張が終わった時点で、もう腹は決まっていた。
そもそもは、東京でもなくロンドンのはずだったけれど。
7月1日の朝、最後のゴミ出しをして、荷物らしい荷物も持たずに、福岡行きの高速バスに乗った。この2年前に就職した時も、入社前日に福岡の免許センターで免許もらって、その足で最寄りのバス停から鹿児島に向かっている。
会社を辞めて、鹿児島から東京へ。なぜ陸路だったのか覚えていない。今思えば、普通に飛行機でも良かったはずなのに。
貯金はほぼなく、時間だけあったので、ヒッチハイクで行こう!という浅はかな考えは、大雨に打たれてすぐに萎んだ。
昼過ぎに福岡に到着。
九州新幹線の全線開業の1年前のことで、鹿児島を飛び出すのはなかなか大変なことだった。
北九州で学生時代を過ごしていたこともあり、博多のバスセンターに降りた時は、懐かしさが込み上げた。
1年前の2009年にも、陸路で東京–鹿児島間を縦断していた。出張というか研修で東京にいて、帰路の飛行機に乗り遅れたのが理由。自腹で痛かったが、数年後にその時のエピソードをJR東日本の車外広報誌に寄稿する機会があり、原稿料として戻ってきた。
塞翁が馬。
2010年に話を戻す。
午後になっても、雨はまだ降っていた。
夕方よりちょっと前に、尾道の友人宅に到着。銭湯で一風呂浴びて、お好み焼き食べて、お酒を飲んで、その日は終わり。
翌日、友人の実家で、朝ごはんをご馳走になる。
ご飯ができるまで、棚にあった溶接工が主人公の漫画『とろける鉄工所』を読む。主人公たちは広島弁で喋り、舞台も広島。
溶接時に強い光を浴び続けることで目がやられ、普段から涙目になったり、飛び散った火花で体じゅうに火傷ができるのは、溶接工のあるあるらしい。
このあと、すぐに現実に目にすることになる。
友人宅を出て、しばらく歩く。学生もとうに終えて、いい社会人がお金も払わずにヒッチハイクすることに、今更ながら気が引けてきて、なかなかボードをあげられず、尾道大橋を過ぎてもなお歩いていた。
このまま歩いて岡山に到着してしまうんじゃないかと思ったところで、おそるおそるボードを出してみた。
「→福山まで」
すぐに一台のワゴン車が止まってくれた。家族連れ。
学生さん?
「いえ、もういい年した社会人なんですけど、前年に見た東京のネオンが忘れられなくて、でもお金ないのでヒッチハイクしてます」
車内には中学生くらいの子どももいたので、教育上好ましくないと思い、正直に言えず、
「はぁ」とか「はい」みたいな返事をしてやり過ごした。
岡山との県境、福山市で下ろしてもらう。
雨が上がって、急に強烈な日差しが差していた。小雨で濡れた体も、すぐに乾いて、30分も歩くとサンダルで覆われていない足の部分がすぐに焼けた。
卵ご飯専用の醤油の大きな看板が掲げられた醤油工場付近で、またおそるおそるボードを出した。
今度もすぐにとまってくれた。
話は飛んで2018年。軽井沢のキャンプ場に取材に向かう途中、ボードを出していないのに、二度も「乗らないか?」と声をかけてもらったことを、今思い出した。
もう一度、2010年に戻る。
とまってくれたのはデカくていかつい感じの車。運転してた人の目にはサングラス。名前は頭文字を取ってシゲさん。
日差し強いですもんね。
シゲさん:いや、仕事で目が弱いんよ。涙が出てくるから。
溶接の仕事ですか?
シゲさん:よう知っとるじゃん。
乗っている間じゅう、色んなことを話した。
昔旅をしていたこと。付き合っている彼女と結婚を考えているのだけど、でも、なかなか恥ずかしくて言い出せないとか、そんなことも話してくれた。
シゲさんは少しでも先に進ませてあげようとしてくれて、
自分の広島の家もとっくに通り過ぎて、岡山市内まで運んでくれた。
お礼を言って、名前を書いてもらって、一緒に写真を撮った。
当時はmixiぐらいしかSNSもなく匿名が基本だし、その年に登録していたFacebookも確かまだ紹介制で一般的ではなかった。
住所か電話番号くらい聞いておけばよかった。
別れ際、「頑張ってプロポーズするわ!」と言っていたけど、元気でいるだろうか。
岡山市内も相変わらず日差しがすごかった。
下ろしてもらったスーパーの駐車場から、少し歩くと、電柱に
「岡山ー東京高速バス3500円」と書かれている貼り紙広告が目に止まった。
これしかない。
出発の夜まで、まだかなりの時間がある。近くの銭湯があと一時間で開くので待った。
その銭湯は地域の社交場。お酒が飲めるカウンターがあったり、おじいさんたちが将棋差してたり、Wiiでみんなのゴルフしたりしていたのに混ぜてもらう。数時間世間話してバスを待つ。
銭湯を出る時、みなさんにエールを送ってもらった。
バスでは岡山市内から乗ってきたチンピラが、やばかった。足を前の座席に放り出して、上半身裸で、酒臭とイビキがやばい。態度もやばい。でももっとやばかったのは、自分の行動。声をかけて一旦止めてくれたのに、またイビキが聞こえて腹が立って後ろから蹴ってしまった。若いって怖い。
翌朝、イビキ以外は特に何事もなく東京に到着。正確には、転がり込む予定の弟の部屋が蒲田にあったので、川崎のバス停で降りて、京浜東北に乗って蒲田で降りた。
手元には現金2000円と、少しばかりの金(きん)だけ。
到着早々、東京に行くことを伝えていた小学校時代の友人から電話があって、こちらの事情を知ってとりあえずのお金を貸してくれて、家の初期費用も貸してくれて、三軒茶屋のボロアパートで東京生活が始まった。
数日後には、友人がやっていたメディアの運営を手伝うことになった。
ちょっと前まで手持ち2000円だった無職が、取材でトム・クルーズなどのハリウッドスターに直接声をかけて写真を撮ったり、GOPROさんに機材をお借りして、コラボ案件でYouTuberデビューしようとしたりしていた。
数ヶ月前、鹿児島で辞めることを言い出せずに営業車の中で何度も「辞めます!」を連呼して予行練習してた時とは大違いの日々を過ごした。
数ヶ月で何かスキルが向上したはずもなく。変えたのは行動だけ。
2010年はそういう年だった。
2011年、あの地震があって、それからいろいろあって、インタビュアーになって、本も出させてもらって、日本中を取材で回って、結婚もして子どもも産まれた。
思い返せばまあまあ色々あったはずなんだけど、
でもやっぱり早かった。
転勤族の家庭で育った自分が、数回引越ししたとはいえ、10年間も同じ東京に住んでいるのは、今までで最高の定住記録。
たぶん、これからの10年はもっと早くなる。
もっと自由に、たくさん動いて、たくさん作る、そんな始まりの年にしたいと、10年前を思い出す。