こんな話をしています……
- 「母ちゃんに楽させる」ため、金持ちになりたいという気持ちが強く、歌手や俳優にも憧れていた
- はじめてプロ野球を見たのは高校の修学旅行の時だった
- 入団一年目に「素質がない」とクビ宣告を受けた
- 素質だけに任せると一流にはなれないし、いくら才能があっても努力しなければならない
- 努力に即効性なし
- 最後には、正しい努力をしたヤツが出てくる
野村克也(のむら・かつや) 氏
プロフィール ※インタビュー当時
1935年生まれ、京都府出身。京都府立峰山高校卒業後、野球選手として1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレー。
引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、社会人野球のシダックス、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任。
ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。
著書に、『野球のコツ』(竹書房新書)、『野生の教育論―闘争心と教養をどう磨くか』(ダイヤモンド社)、『私の教え子ベストナイン』(光文社新書)、『野村克也の「菜根譚」』(宝島社)など、多数。
極貧時代……人一倍強かった「金持ち」への想い
小学4年生の時に終戦を迎えた。当時の子どもたちの夢は陸軍か海軍に入ること。陸軍に所属していた父を亡くし、自らも「親の敵を討ちたい」と陸軍を志願していた。全体が貧しい時代。食糧難で、生きるために畑で食物を失敬したこともあったという。
「貧乏はイヤだ、金持ちになりたいという気持ちが人一倍強かったんだな」。
「母ちゃんに楽させたい……」。
どうすれば金持ちになれるか考えた結果、浮かんだ最初の職業は「歌手」。美空ひばりのスターダムに上がっていく姿に憧れ、中学校では音楽部に入部。映画俳優にも憧れたが、映画を見たあとで自宅の鏡の前で俳優の真似をしてみたが、二枚目とはほど遠い姿にみずから「これは駄目だ」と諦めた。
「(演技派で三枚目の)渥美清さんや藤山寛美さんなどが同年代だったらね、俺も少しは希望が持てたかもな(笑)」。
中学三年になり、「お前は成績も悪いから、卒業したら働きに出てくれ」と母に言われた。ところが正反対の成績優秀な兄が大学受験を断念して、高校への進学を後押ししてくれた。
生まれ育った網野町(現在の京丹後市)は丹後縮緬の産地だった。兄の勧めで、地元の高校の工業科の中から、カネボウの社会人野球でつながりの深い化学コースに進学し、野球部に入った。
家にはテレビもなかった。
はじめてプロの野球を見たのは高校の修学旅行。東京の後楽園でおこなわれた西鉄と阪急の試合。
「この時は、まさか自分がプロになるとは思わなかったよな。純粋に楽しんでたよ」。
高校時代の野球成績は芳しくなく、唯一誇れた「西京極球場でホームランを打った」では、スカウトも来なかった。
ある日、新聞の片隅に載っていた『南海ホークスの新人募集』が目に止まり、大阪球場へプロテストを受けに行った。
周りは名門校の出身者ばかりで「これは受からねぇなぁ」と。ふたを開けてみれば、300人以上受けて残った7人に入っていた。
そのうち4人がキャッチャーだった。受かった4人の出身を聞くと、皆聞いたこともない田舎ばかり。プロテストのはずが鶴岡監督の姿もなかった。
そのときこれがブルペンキャッチャーの募集だったのだと気づいた。
「スレた都会の子よりコツコツと真面目にやる田舎の子の方がいいというのが、選ばれた理由だろうね」。
入団から一年後の“クビ”宣告
入団早々、コーチからは「3年でみんなクビだ。長くひっぱると再就職に中途半端な年齢になるから、大学に行った連中より1年早く辞めさせてやる、会社の恩情だ。」と言われた。
1年後の契約更新時。球団課長から「お前は素質がない。プロの目で分かる。やり直しは早い方がいい」とクビ宣告を受けた。
母親の反対を押し切ってのプロへの挑戦だったため、迷惑をかけまいと必死に直談判をした。
「もう就職もないでしょうし、帰り南海電車に飛び込んで死にます。私から野球をとったら何もありません。もう1年間だけ面倒を見てください。試合に使ってもらって、おっしゃる通り素質がないと感じたら、辞めて帰ります。給料もいりません」。
なんとか、首の皮がつながった。
プロで3年間野球を勉強してその経験と知識を田舎へ持って帰って、母校の監督をやって後輩を甲子園に導くことが夢になっていた。
ところが、3年目に一軍入り、4年目にホームラン王になり状況は変わった。クビ宣告をした課長は、野村選手を見て「分からんもんやなあ。ようお前も頑張ったろうけど、お前にはいい勉強させてもらった」と笑った。
5、6年目は打率は下がりホームランも減った。その時に、『バッティングの科学』(テッド・ウィリアムズ著)を読んで、投手のクセを研究するようになった。
これがID野球の基礎となった。そうした努力の積み重ねで、王や長嶋のようなひまわりのような選手が活躍する中で、“月見草”として26年務めあげた。
選手引退後の身の振り方も考えていた。「12球団の監督は、皆、大学出ているから」と、野球解説者を目指した。
「素質だけに任せると一流にはなれないし、いくら才能があっても努力しなければならない」。
努力の効果も、すぐに表れるものではない。継続は力なり。監督になってからも、「努力に即効性はない」と選手たちに伝えてきた。そして、「正しい努力をせよ」と。
正しい努力――周囲と自分を冷静に分析し、その差分を研究し埋めていく。
自分の夢のために、気づいたことをメモするノートとペンは常に持ち歩き、一流を知るために自費でメジャーデビューの勉強、教育リーグ、ワールドシリーズにも足を運んだ。
インタビューの最後にこう締めくくった。
「最後には、正しい努力をしたヤツが出てくる」。 それは野村克也という人間の努力の歩みを表す言葉だった。
(2020.2.11逝去)