「すべては行動あるのみ」。向けられた海外への眼差し
米澤氏:そうして一人前の料理人を目指して少しずつ経験を積んで、ようやく仕事も板についてきた頃、今に繋がる大きな転機が訪れました。すでにホールでの接客を経て、厨房に入っていたのですが、お店が忙しい時は、ホールにかり出されていました。店長は、私が英語も勉強していたことを知っていたので、よく外国人のお客さまの接客担当に指名してくれていたんです。
ある日、アメリカ人の団体のお客さまの接客を担当したのですが、これがきっかけで私の目指す地点がひとつ大きく変化したんです。喜怒哀楽がはっきりとして、リアクションが面白いお客さまに、私も楽しくなってサービスをさせて頂きましたが、帰り際、私に向かって一斉に拍手してくださったんです。サービスを供する側が逆にサービスを受けてしまったかのような、なんだか不思議な気分になってしまって……。
「なんて素敵な人たちなんだろう。この人たちの住む国、アメリカで料理を作ってみたい!」と、この時はじめて、アメリカという国に対して興味が湧いたんです。当時、料理の世界で一流を目指そうと思えば、フランスやイタリアなど、ヨーロッパに留学するのが王道で、「料理でニューヨークへ」というのは一般的ではありませんでした。親を説得し、お店に説明して、とりあえずあるお金でチケットだけは購入して、とにかくできることから動いていました。
――「行動のみが現状を変える」。
米澤氏:実のところ、そこから貯金もはじめてはいたのですが、なかなかお金が溜まらず苦労しました。出発直前、ようやくかき集めても、たったの40万円。結局決めたのは飛行機のフライトだけで、あとはそのまま働く場所も、住む場所も決めずに渡米しました。この先どうなるとか「常識」で考えてたら、とてもじゃないですけど行けなかったと思います。
今、「どうしたら海外に行けますか」とアドバイスを求められることがあります。そんな時は決まって「とにかく“行く”と決めたら、それに必要なことから逆算して動いたほうがいい」と伝えています。今でも、「行動のみが現状を変える」と信じています。そして結果的にはこの選択が、今に繋がる料理人としての私の生き方を形作ることになったんです。21歳の時でした。
“最高峰の現場”決め手となったのは「鳥さばき」「アスパラ剥き」
――アテなし、コネなし、お金なしのニューヨーク生活が始まります。
米澤氏:ニューヨークに着いてからの予定を何も決めずにいたので、とりあえず、本格的に英語を学ぼうと、まずは語学学校に通ってみました。ところが、わずか2回目の授業で、自分には難しすぎて、学校で学ぶには限界があり、体当たりで覚えていく方が早いことに気づかされました。
とはいえ、とりあえず仕事をするにしても、独学で覚えた最低限の英語しか話せないし、どうしたものかと困っていましたが、たまたま居候していた先の知り合いが、現地の人気日本料理店に求人があることを教えてくれ、「これはチャンスだ」とすぐ会いに行きました。
今でも覚えていますが、お店に着くなり「これ、さばいてみて」と、鳥を一匹ぽんと目の前に差し出されました。面接から始まるとばかり思っていたので、少々驚きつつも、恵比寿時代に教えられた通りにさばいてみたら、それを見て「よし」とひと言。その日から働かせてもらえるようになりました。
――恵比寿の頃に学んだ「基本」が、身を助けました。
米澤氏:「なんだ40万円もいらなかったな」と、軽口を叩いていましたが、すぐに目が回るほどの忙しい日々が始まりました。ニューヨークタイムスで三ツ星評価を受けたレストランで働いた唯一の日本人が経営する、現地で人気の日本料理店。恵比寿時代は勉強に一所懸命でしたが、圧倒的に働いたと思えるのはこの時期でしたね。
週6日働かせてもらって、残り1日の休みの日にも、直接見たり、評判を聞いたりして知ったお店に電話をかけては、「そちらでインターン(研修生)として働かせてください!」と、つたない英語でお願いしていました。
最初は、電話をかけるのにも勇気がいりましたが、だんだんそれにも慣れてきて。そんなことよりも、現地の高級レストラン・有名レストランでの現場経験が積めることの方が、遥かに刺激的だったんです。お金もなかったですし、体力的にもハードでしたが、一流のシェフの仕事を目の当たりにでき、一日の仕事の終わりには「なにか好きなものを食べろ」と、一流シェフの料理を食べさせてもらえる(厨房に立ちながらですが)……。お金では買えないものをたくさん吸収させてもらいました。
「Jean-Georges」に出会ったのも、この週イチの見習い活動がきっかけでした。ニューヨークで三ツ星を獲り続け、地元有力紙からも絶賛のコメントが寄せられていた、最高級フレンチレストランです。外から眺めてもかっこよく、使われている機材や鍋ひとつとっても格好よかったのを覚えています。私はすぐに電話をかけ、インターンで働かせてもらえるようお願いしたのですが、ここでもまた恵比寿で学んだ基本が活きたんです。
インターンとしてお店に入った初日、アスパラを2ケース、またぽんと目の前に出されて「全部剥いて、切ってくれ」と言われたんです。アスパラを剥くのは、恵比寿の頃からずっとやっていて、誰よりも早く美しく下ごしらえすることには自信がありました。すぐに下ごしらえしたアスパラガスを見てもらうと、周りから「あり得ない」「早いのに綺麗だ」と、皆一様に驚いてくれました。
そうやって、成果を見てもらって、また翌週もとお願いしていくうちに、少しずつ次の仕事を掴んでいきました。その後、「Jean-Georges」ブランドであるニューヨークのカジュアルラインのダイニングに雇ってもらえることになったのも、こうした基本があったからだと思います。でも、そうやって順調に経験を積んでいくかに見えた数年後、私は今まで味わったことのないピンチに見舞われたのです。
「プラスの力はマイナスを超えられる」
ポジティブ思考で乗り切った最大のピンチ
米澤氏:「Jean-Georges」での仕事が板につくようになって、私はさらに新しい目標を掲げるようになりました。それは「日本人でのスーシェフ(副料理長)になった人物はいない」という事実を耳にし、「それならばいっそ、この1年でスー・シェフを目指して全力で頑張ってみよう」と思ったんです。
自分にとっては高い目標でしたが、成し遂げるためにはどうすればいいかをひたすらに考え、がむしゃらになって仕事をしていました。そうして、「作業」にならないよう、再び自分の中でエンジンをかけて取り組むこと1年後、入店から数えて3年、ようやく納得のいく目標を達成することができました。
――日本人初の、スー・シェフ(副料理長)に。
米澤氏:でも、大変だったのはここからでした。今まで同僚だった人間が、突然指示を出すわけですから、周囲はそう簡単に私の指示を聞いてくれません。周りの料理人たちが戸惑いを覚えるのは当然です。指示を出しても、「言っていることがわからない、理解できない」と、言葉がわからないフリをされていたんですね。何を話しても無視される毎日で、仕事にならない。だんだん、言葉を発することすら怖くなってしまって……。
今まで、どんなに大変な状況でも「辞めたい」と思ったことはありませんでしたが、この時ばかりはさすがに参ってしまいました。仕事に行くのがはじめて「嫌」になり、日に日にやる気を失っていく……。そういう状況だった私を救ってくれたのは、同店のエグゼクティブ・シェフのひと言でした。
「君が今訴えている状況も含めて、僕は君の話を理解できないと思ったことは一度もない。“英語が話せない”のは、君の言い訳でしかない。理由は別のところにあるのだから、あとは周りを納得させるだけ。そのままの自分に自信を持って貫け!」と言ってくれたんです。
負のスパイラルの中で動けなくなっていた私でしたが、ようやく問題の本質が英語ではなく、自分の姿勢にあったことに気がつきました。そのひと言をきっかけに、自分の考えや行動をブレることなく伝え続けると、周りの状況も面白いほど変わっていきました。相手自身を変えることはできなくても、自分を変えることで、相手の反応も変わってくる。その姿勢こそが、人を動かす。それを示せるかどうかが、大きな差になることに、ようやく気づくことができました。
――置かれた状況を、“自分ごと”にしていく。
米澤氏:“自分ごと”にして、とにかく考えて行動する。「無視する奴が悪い」「言うことをきかないのが悪い」と“他人ごと”にしてしまっては、いつまでも知識と経験は財産として残りません。自分ごとにして、はじめて知識と経験は、財産になると思います。そして何かに一生懸命になっていると、周りが変わってきます。一生懸命、熱意を持って何かに取り組むというのは、人の心を動かす力を持っているんですよね。
その行動が評価されるタイミングは、決まっていません。でも必ずその頑張りは評価され、自分にとって有益なものになると思います。自分ごとにして頑張ることで、絶対的な結果を勝ち取る。この繰り返しだと思います。