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数岡孝幸さん(研究者)「日本酒の伝統に革新をもたらす次世代の研究者」インタビュー

日本酒ブームと言われて久しい昨今。「花」から酵母を分離するというアプローチで、業界にさらなる革新をもたらす研究者、数岡孝幸氏。次世代の日本酒文化を担う逸材と注目される同氏が籍を置く「東京農業大学醸造学科酒類学研究室」には、全国各地の蔵元、酒販店、さらには愛好家の方々がこぞって訪れています。自身も無類のお酒好きという数岡氏が、この世界に身を置くことになった、意外な“偶然の重なり”とは。数岡氏の「選んだ道をよい道に」してきた軌跡を辿ってきました。(アルファポリスビジネス掲載記事です。写真/Hara・アルファポリス)

こんな話をしています…

  • 将来の選択肢には、家庭の事情である種の「制約」があった
  • 制約の中で一番の最適解を探し、ゴールに辿り着くまでの道のりを「妄想」で進んできた
  • 孤独になりがちな研究生活を後押しする、「好き」という気持ちを守りたい
  • 「選んだ道をよい道に」どうせなら選んだ道を、存分に楽しむ

数岡孝幸(かずおか・たかゆき)氏プロフィール

東京農業大学 短期大学部
醸造学科 酒類学研究室 准教授

 

兵庫県出身。関西大学生物工学科、同大学大学院工学研究科博士後期課程を修了後、京都大学の任期付研究員、同大科学研究所講師を経て、現職。研究テーマは「自然界からの酵母の分離と特性解明」「麹菌由来抗菌物質に関する研究」。次世代の日本酒業界を担う逸材の一人として、全国各地から蔵元、酒販店、愛好家が同氏の元を訪れている。また「花酵母研究会」顧問として、企業やNGO、市町村と協力して、新商品の研究・開発にも積極的に取り組んでいる。

酒類学の最前線「東京農業大学醸造学科酒類学研究室」

――日本酒に関するユニークな研究が、たくさんおこなわれています。

数岡孝幸氏(以下、数岡氏):私が所属する東京農業大学醸造学科酒類学研究室というのは、文字通り「酒類全般」が研究対象です。その中でも、主に日本酒などの原料、関与する微生物、もろみの発酵経過から、さらに製品になったあとの流通、日本酒に対する嗜好の変化・変遷への対応まで、酒に関わるすべてが研究対象になっています。近代的な労働条件を満たすための作業改善等も考慮する一方で、伝統産業継承の精神を尊重しながら研究を進めています。

私の専門領域は主に、「酵母」と「麹菌由来の抗菌物質」なのですが、同研究室の中田久保(なかた・ひさやす)教授の研究が出発点である、「花」から酵母を分離する研究では、その成果が、私も大好きな「日本酒」を通して、おかげさまでさまざまな場所で活かされています。

私が顧問を務める「花酵母研究会」では、花から分離した酵母を酒造りに活かすべく、清酒業界を中心に共同開発、連携をしていまして、現在約30蔵が、これらの酵母を世に広めるため、製品化してくれています。最近も、「空と土プロジェクト」という、企業のCSR活動、NPO法人、そして東京農大も関係するプロジェクトで、ひまわりの花から焼酎用酵母を分離して『純米焼酎 大手町』というお酒ができあがりました。

また、世界で流行の兆しが見られるジンに着目して、沖縄県のある酒造さんと、沖縄県特産のボタニカル(植物性原料)を使用した、「沖縄ジン」の開発も手がけています。その他、市町村から依頼を受け、地方活性化、特産品創造を目的に、特産品用酵母の開発や、花から分離させた酵母を、日本酒だけでなく発酵食品全体に活かすべく、パン製造用酵母として実用化する取り組みなどもおこなっています。

――「好きを仕事に」楽しんでいらっしゃる。

数岡氏:研究職というのは、なかなか孤独なもので、ともすれば研究室にこもりがちにもなってしまいます。私の場合、たまたまその研究の対象の先に「お酒」が大きく関わるということもあって、たくさんの人たちと仕事ができています。ここに集まってくれた学生も含め、研究室だけにいては出会えなかった人たちと交流でき、それが研究成果にも繋がる今の立場は、研究者としても仕事人としても、そして日本酒を愛する者としても大変恵まれていると感じています。

ただ私は、最初からこの世界を目指していたわけではなく、今この場にいるのも実はいくつもの偶然と出会いが重なった結果なんです。振り返ってみると、好きと仕事の順序が逆と言うか、「選んだ道をよい道に」と進んできた結果だったように思います。


「明解な数式の世界」を愛した少年の意外な進路選択

数岡氏:もともと引っ込み思案なところがあり、将来への明確な目標というものを持たずに、のんびりと高校生まで過ごしていたように思います。私の出身地は、兵庫県の稲美町という所で、のどかな田園風景が広がる田舎で育ちました。小さい頃から高校1年生まではサッカーに熱中していて、ほとんどボールを追いかけていた記憶しかありません。

将来に研究者を志したこともなく、大学進学の経験がなかった両親からも、「(大学に)行きたいのであれば行ってもいいよ」という感じで、これといって敷かれたレールもなかったんです。高校1年生の時に、自動車事故に遭ってしまいサッカーは辞めることになるのですが、それで悲観するようなこともなく、それならば別のことをするかと、そこでようやく「勉強」というものに取りかかったくらいです。

ただ、ずっと好きだったのは、「物理」の世界でした。身の回りの現象から果ては宇宙まで、あらゆる事象が基礎となる公式で説明できる、解を“自分で”導き出せる物理の世界が大好きだったんです。明解なことが好きなのかもしれません。それで、通常「好き」からはじまると自然と「得意科目」になり、さらには自動的に「受験科目」となるわけですが、自分の場合、大学受験ではまったく別の分野に進むことになりました。

――将来何になりたいか、まだ何も見えていなかった。

数岡氏:高校生なので当然と言えば当然ですが、世の中にどんな仕事があるのか、まだ分かっていなかったんだと思います。それで、自分は何を思ったか、仲のよかった友達が受験するという理由だけで、関西大学を受験し、結果物理とは直接関係のない「生物工学科」に進学することになるんです。

同じ理系でも自分の場合は、物理や化学を選択していたのですが、確かその頃の関西大学の生物工学科は「生物」を受験科目にしなくてもよかったんですね。結果、晴れて、当時流行だったバイオテクノロジーを研究できる生物工学科の学生となったのですが、これが今の道へ進む、最初の岐路だったんじゃないでしょうか。

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