――昨年(2016年)は、ちょうど有田焼400年の年に当たりました。
酒井田柿右衛門氏: 初代柿右衛門が色絵磁器を創始したのが1646年と言われていますから、それから約370年。柿右衛門は有田焼400年の歴史とともに歩んで参りました。私は、一昨年の2014年2月、十五代柿右衛門を襲名し、今年で4年目を迎えます。柿右衛門の歴史400年という大きな骨組みを自分なりに確認しながら、今の時代に何が必要なのかを探っている段階です。
17世紀にその製法が確立された、温かみのある乳白色が特徴の「濁手(にごしで)」。柿右衛門の美しい赤絵に最も調和したこれらの作品は、当時のオランダ東インド会社を通じて、遠く欧州の地で、王侯貴族などに愛されてきました。海を渡った「柿右衛門」が、どのような歴史を歩んでいったのか。そこに何か今後につながる、そして十五代として魅せていくヒントがあるのではと、昨年(2016年)は、そうした全盛期だったころの柿右衛門に原点を見出すための、国内外の視察や取材を積極的に行いました。
――製陶以外にも、さまざまな取り組みを。
酒井田柿右衛門氏: 国の重要無形文化財である「濁手」の窯元として、そうした日本文化の保持と発展に寄与したいという想いから、柿右衛門製陶技術保存会会長や、大学の客員教授など務めております。伝統文化の担い手の減少は、この有田も例外ではありません。伝統を次代に繋いでいくためにも、そうした製陶以外の発信も重要だと考えています。
柿右衛門窯の伝統をつなぐ大きな輪の中で
酒井田柿右衛門: 先代であり14代柿右衛門であった父は寡黙な人で、父と私が初めて会話らしい会話をしたのは、私が17歳のころ。進路について話したのが最初で、それまでは、代々受け継がれていく「柿右衛門」を意識することなく過ごしてきました。
小さいころは人見知りでおとなしい性格だったようです。ただ、遊びとなると真逆で、文字通りこの辺の野山を駆け回っていました。山へ入ってドングリを拾ったり、魚も釣るだけでなく、手づかみで獲ってみたり、そうした自然豊かな場所でのびのびと育ちましたね。こうした有田の自然の中で野山を走りまわっていた幼少期の記憶は、今でも作品の中で活きています。 柿右衛門を意識することなく育ったのは、私だけでなく父も同じで、先先代から直に伝えられるのではなく、まわりから学んでいったようです。私も、本格的に製陶に入る前は、先代と同じく多摩美術大学の日本絵画を学ぶ道に進んでいましたが、こちらに戻って窯に入ってからは、職人さんたちから、朝から晩まで、最初は轆轤(ろくろ)を回すことから教わりました。
――職人さんたちから、伝統を伝えられた。
酒井田柿右衛門: 柿右衛門窯は製陶に携わる職人の存在抜きには語れません。彼らが、先代柿右衛門の技術を受け継ぎ、当代へと繋いでくれるのです。私は先代から、作品づくりを一から教わったり、直接の指導を受けたりしたことはありません。すべては先代の技術を肌で学んだ職人さんから教えられました。当代から次代へ、直接ではない伝え方も、柿右衛門窯の特徴と言えるのかもしれません。
先代からの工房にいらっしゃる職人さんたちは、私に柿右衛門の伝統を教えてくれる先生でもあり、後世に伝えていく仲間でもあります。柿右衛門様式の伝統の伝承とは、そうした大きな輪、仲間たちで繋いできたのです。
使い手の喜びこそが、ものづくりの到達点
酒井田柿右衛門: 窯に入って約20年間。この間は、柿右衛門の伝統技術を受け継ぐことに専念していました。自分の芸術性を出し、世に問うて、その評価を次ぎに活かせるような段階ではなかったのです。個展を開くようになったのは、襲名後のことです。
最初に個展を開いた時は、初代から続く歴史の重みにプレッシャーも感じていましたが、少しずつ反応を確かめながら皆様に楽しんでもらえるよう、交流の場として続けてきました。構図を変えるだけではなく、新作を意識しており、野山を散策してモチーフを探したこともありました。また、たくさんの題材を持つ先代の作品も、伝統伝承の役割を果たしてくれました。
――個展を開くことが、新しい挑戦の原動力になる。
酒井田柿右衛門: ものづくりをする者にとって、作品を目の前で手にとって喜んでもらえる機会はそんなに多くはありませんが、個展を開く事によって、さまざまな方々よりお声をいただけることは大変有り難いことだと思っています。
私も、「食器屋」として、華やかな食事の場に華を添える器づくりができること、それがおもてなしの場に使われ、皆様の笑顔に繋がっていく……。作り手として何よりの喜びだと感じています。 柿右衛門の特徴は、その余白にあり、先代も引き算だと常々申しておりましたが、私はそれを守りつつも、余白をしっかりと感じられる器の中に「賑やかさ」を感じられるものをと考えています。また、唐梅文(からうめもん)のように、柿右衛門の代名詞ともいえる「赤」を一切使わないなど、新しい色使いを探ることにも挑戦しています。そうした、さまざまな試みの中で、日々器づくりに向き合っています。
伝統の中で生きる十五代の「色」
酒井田柿右衛門氏: 「柿右衛門」は、言ってしまえば代々受け継ぐ、家業としての屋号に過ぎません。襲名したからと言って自動的に技術が上達するわけでも、ましてや偉くなるわけでもありません。「柿右衛門」の伝統とは、当主から技術を受け継ぐ職人さんと、使い手である皆様との交流であり、それが伝承される中で文化となっていきます。私は、そうした皆さんで作り上げた文化を受け継ぐ役として存在すると思っています。
一番の役割は、やはり、当主として柿右衛門の伝統を次代に引き継ぐことです。窯全体のレベルを、次代に繋ぐまでにどれだけ技術水準をあげていけるか。それは現当主の技術力でもあります。先代とは違った受け渡し方もあると思っています。16代となる私の息子は、まだ轆轤に足が届かない年齢ですが、高校生までに一通り教えたいと考えています。 技術の発達によって、材料や道具、大切な工程も、知らないうちに抜け落ちてしまうこともあるので、そこを見落とさないように。どのように、次代の柿右衛門に繫いでいくか。その受け渡し方こそが、柿右衛門の伝統であると思っています。私は、14代までの伝統を受け継ぎながらも、15代ならではの柿右衛門を皆様に、そして未来に届けて参りたいと思います。 ――伝統の中で生きる、十五代の「色」とは。
酒井田柿右衛門氏: 伝統は、一方で個性との戦いであると考えています。伝統という枠の中で、何ができるか。まだ存在している自身の作家性といったようなものを、伝統の枠組みにどう落とし込んでゆくか。現代にいかに調和させていくか。先代や過去綿々と流れる伝統を受け継ぎながらも、15代としての色を出していかなければなりません。
今はまだ伝統を引き継ぐ段階であり、十五代としての柿右衛門はまだまだ模索中です。大きな伝統に近づく、その入り口に立っているというのが今の心境です。これから製陶を30年、40年、どこまでできるか分かりませんが、その間に十五代の、この時代にしかできなかった十五代柿右衛門の「色」を、伝統の中に塗り重ねて参りたいと思います。
十五代酒井田柿右衛門(柿右衛門窯、当主)の一筆
「長生き」