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川崎幹夫さん(紀州へら竿師)「使い手との邂逅でつくられる紀州の竿」インタビュー

使い手との邂逅でつくられる紀州のへら竿

今回のお相手

紀州へら竿師の川崎幹夫さん。明治時代に確立された紀州へら竿づくりの技術は、代々親方から弟子へと受け継がれてきましたが、川崎さんの手がける「東峰」、「玉成」の銘が入った作品には、高い技術力だけでなく、竿を愛する想いが込められていました。紀州へら竿の世界を広げるべく日々挑戦される川崎さんに、歩みを辿りながら、竿づくりにかける想いを伺ってきました。

川崎幹夫(かわさき・みきお)さんプロフィール
昭和32年和歌山県生まれ。幼少の頃より竿師になることを夢見て育ち、昭和55年竿師である父「東峰」に入門。東峰が脇名で使っていた「玉成」銘を譲り受け、昭和60年にデビュー。素材について研究熱心であり、素材の持つ微妙な違いを見極めバランスにこだわる。竿の機能美を表す作品を作り続けている。

紀州へら竿師の挑戦

――ちょうど高野竹の切り出しをされていたということで。

川崎幹生氏: 今、10月から12月の3か月が、まさに高野竹を切る時期なのです。昔はたくさんいた切子さんも高齢になって人数も減ってきていますし、自然環境が変わったのか、使える良い原竹も枯れてきていて、材料自体の確保が年々困難になってきているのを実感します。昨日は何百キロと車で走って、山を分け入り1日かけてやっと10本ぐらいでした。良い竹を見つけて「もう少し育てておこう」と思っても、次にきた時はなかったりする。これはもう仕方がないし、縁ですね。

紀州へら竿は、真竹、高野竹(スズ竹)、矢竹から構成されているのですが、二番目の核となる高野竹は、切った段階で8割方はその竿の調子が分かってしまうくらい、紀州へら竿の命でもあります。自然が相手のものですから、素材によって性質も微妙に変わってきます。ですから質の良い原竹を慎重に選んで採取してきます。その貴重な素材を使って、最大限何ができるか、お客さんの要望に応えられるかが、竿師の腕の見せどころです。

――素材の微妙な違いを見極め、そこに技術が加わって一本の竿が出来る。

川崎幹生氏: 技術だけでなく込められた想いが、世代を超えた交流を生んでくれています。竿師であった父清照の作品を愛好していただいた方からアドバイスをいただいたりと、昔の交流が今に生きているのです。私が今、竿師をしているのも父の影響からでした。

紀ノ川に育まれて

――雄大な紀ノ川がすぐそばに流れています。

川崎幹生氏: 
私が小さいころは、このあたりの山や川をどろんこになって遊び回っていました。年代もバラバラでガキ大将がいてと、典型的な田舎の風景そのものでしたね。また、外へ出て道を歩けば竿屋さんに会うのが当たり前の光景で……そのくらい、ここでは竿師は普通の職業でした。家には父のお弟子さんも出入りしていまして、そこで働く父の姿を身近に見て、私も「大きくなったら竿師になりたい」と憧れていたものです。

ただ自分は器用ではないと思っていたので、夢はいったんしまい込み、高校生までは普通に過ごしていました。特段目標も無く、そのまま大学へ進み経営学を学んでいましたが、将来は普通の会社員になるんだろうと思っていました。

父から継ぐようにとか、そういった話はありませんでした。この職業を継いでもらおうとは思っていなかったようです。やはり、やりがいだけで語れない厳しさを知っていたからだったと思います。また世の中は大量生産、大量消費に入っていた時代で、職人さんには厳しい時代でした。

ところが、私が二十歳になるころ、一緒に遊んでいた地元の先輩や仲間たちが、二代目として竿師の道へ進むようになり、私も徐々に将来の進路を考えるようになりました。大学へは二時間弱ぐらいかけて通学していたのですが、ある日、地下鉄の階段から地上に上がっていく群衆に揉まれながら、「自分には、こういう生活が出来るだろうか」と問いかけるようになりました。そして、「(厳しくとも)やはり小さいころに憧れていた仕事を目指さないとあかん」と思うようになりました。そこで大学3回生の時に、初めて父に仕事をさせてもらうべくお願いすることにしました。

――ずっと胸の内にしまっていた想いを……。

川崎幹生氏: 
緊張しつつも、仕事場へ訪ねて話を切り出しました。「器用じゃないけど……」と口ごもっていた私に対して、父は「器用にこしたことはないけど、大事なのは努力や。不器用でも努力で出来ることがある。そういう自分の出来る所を探して、深めていけば良い」と言ってくれました。後から聞いたのですが、父はある親しいお客さんに「息子が仕事、跡やってくれるらしいわ」と、喜んで話していたと聞きました。

大学を卒業した年の、4月1日。正式に父の元に入門しました。最初は、明らかに子どもが作ったような、寸法だけがどうにかあったようなものしか作れませんでしたから、そうしたものは容赦なく、「火の中に放り込んでこい」と言われました。また、私が少しでも気を抜こうものなら、ここにある「矯め木」で頭をゴツンとやられました。厳しい父でした。

今私が座っている場所は、火入れのとき父と対面に座っていた当時の私の定位置で、今もそのままになっています。父が座っていたところの方が、作業するには具合が良いのだと思うのですが、なんだかやりにくくて……。土壁だった壁も板に変わりましたが、ここには、叱られながら仕事を覚えていった思い出が染み込んでいます。自分の指先の感覚や、手の動きを感じて、まず体で覚えていく。そして勘所を掴んでいく。叱られる。その繰り返しでしたね。

――師匠に叱られ、体で覚えながら……。

川崎幹生氏: 
道具づくりからはじめて数年後の昭和60年、28歳で父の脇名である「玉成」を継いで、竿師として出発しました。……「玉と成る」これからの自分にふさわしい名前に思えました。それから父の銘である「東峰」を継ぐまで……その間に様々な出来事がありましたが、涌き起こってくる色々な想いと葛藤しながら、35年が経ち今に至ります。

使い手とともに進化し成長する竿づくり

川崎幹生氏: 
私が作っている竿は、「道具」であり、それを使う人、池や川の環境、魚の大きさによって千差万別です。また、同じ材料を使っても、職人さんが40人いれば、40通りの竿が出来きます。ひとつとして同じものはなく、可能性は無限大にあります。ですから「これで終わり」というのはありませんし、常に進化しなければなりません。


また、使い手あっての竿なので、お客さんの要望に応えられるものを作らなくてはいけません。ちょうど今手元にあるのは、お客さんから送られてきた修理のものです。この壊れた竿を見ながら、どんな風にして壊れたんだなとか状況も見えてきます。一本の竿を通して、お客さんと会話をしているような感じです。

竹竿を扱ったことのない人のなかには、折れたり曲がったりを心配される方がいるかもしれません。もちろん自然のものですから、絶対はありませんが、それに耐えるだけの丈夫なつくりに仕上げています。どんどん使って欲しいのです。それでも、壊れた場合は、どうぞ送ってきて頂きたい。しっかりと修理させて頂きます。

――「東峰」「玉成」の銘は、終わらないという証でもある。

川崎幹生氏: 
終わりませんし、私もその中で勉強させて頂きたいと思います。私が作った竿をお客さんが使ってくださって、育てられているのだと思います。

裾野を広げる 新たな挑戦

――2015年、紀州製竿組合の組合長に就任されました。

川崎幹生氏: 
紀州へら竿が、平成25年3月に国の伝統的工芸品に指定されもうすぐ3年を迎えますが、まだまだPRが不十分だと感じています。組合長に就任して、自分に何が出来るかを考えています。

今まで以上に、竹竿を愛する人が集う場を、話の聞ける場を作りたいと思っています。今までも催し自体はやっていましたが、もっと、竹竿愛好家に限らず初心者にも門戸を開いた釣り大会などを催して、この世界の裾野を広げていきたいと考えています。

知らない人間は放っておくというのでは、自らの世界を閉ざすことにもなりかねません。そこに使い手の存在がなければ成長しませんし、道を追求するだけでは、自己満足のまま終わってしまいます。そうした交流の場から、創造もしなかった新しいものや、取り組みが生まれてくるのだと思います。どうなるかわからないものでも、決してゼロではありません。紀州へら竿を愛し携わるものとして、これからもそうした挑戦を作品づくりとともに進めて参りたいと思います。