ニューヨーク発の高級フレンチレストラン「Jean-Georges(ジャン・ジョルジュ)」。その東京店を託されたのが、数々の有名店でエグゼクティブ・シェフなどを歴任してきた、米澤文雄氏。21歳で単身渡米し、同N.Y本店で見習いから日本人初のスー・シェフ(副料理長)に抜擢され、その後、料理界から引く手あまたとなった若き一流料理人。そんな彼が修業時代から常に持ち続けた哲学――料理の技術よりも大切だと説くのは「すべてを楽しみに変える」超ポジティブ思考でした。(アルファポリスビジネス掲載記事です。写真/Hara/アルファポリス)
こんな話をしています……
・常に物事をポジティブに捉えていたい
・行動のみが現状を変える
・「相手に選ばれる行動」ができれば、自ずと道は拓かれていく。
米澤文雄(よねざわ・ふみお)氏プロフィール
料理人。1980年、東京浅草生まれ。幼い頃、母の料理とその喜びに触れ、料理の世界へ。高校卒業後、恵比寿のイタリアンレストランで4年間修業したのち、02年に単身で渡米。毎年三ツ星を獲り続ける高級フレンチ「Jean-Georges」本店で日本人初のスー・シェフにまで登りつめる。帰国後、日本国内の名店で総料理長などの経験を経て、JG日本初進出を機に、レストランのシェフ・ド・キュイジーヌに抜擢。現在、国内外の美食家たちに腕を振るいながら、新たな料理の創作と独自の挑戦を続けている。
【オフィシャルサイト】。
ミシュラン星つきシェフの試行と挑戦
――“日本オリジナル”の新しいフレンチに、世界中が注目しています。
米澤文雄氏(以下、米澤氏):アメリカ・ニューヨークを中心に、世界中で38店舗のレストランを展開するフランス人シェフ、ジャン・ジョルジュ・ヴォンゲリスティン氏。彼の長年の夢であった東京進出を果たしたのが、ここ「Jean-George Tokyo」です。2014年3月に六本木に開店して以来、日本はもとより、世界中から多くのお客さまにお越しいただいています。
100席以上もあるニューヨークの本店に比べ、あえて席数が抑えられた東京店には、日本の料理文化に魅了されたジャン・ジョルジュ氏の特別な想いが込められています。フレンチでは珍しいオープンカウンターを唯一東京店で設けているのも、日本の「割烹料理」のような、料理人がお客さまの目の前で調理し、振る舞う舞台装置を体現したいという彼の願いからでした。
――その舞台の“指揮者”として、シェフ・ド・キュイジーヌ(料理長)を務められています。
米澤氏:ジャン・ジョルジュ氏から受け継いだ独創的な料理を追求する想い、そこに日本人ならではの繊細な味覚や、四季を色濃く反映した、“日本オリジナル”のヌーベル・キュイジーヌ(新しい料理)を、皆さまにお届けしています。さらに「日本ならでは」を楽しんでいただくべく、世界38店舗中東京店だけの、コースの各料理にあった日本酒を提案する“日本酒ペアリング”など、常に新しい取り組みをおこなっています。
「Jean-George」の元に集まった情熱溢れるスタッフたちと触れ合い、料理を通じて「挑戦の喜び」を共感できる今は、とても充実しています。もちろん、楽しいことばかりではありませんが、大変さも含めて「喜び」と感じられるのは、人を笑顔にできる“料理”そのものが大好きだからなんです。そんな料理への想いとともに、私が大切にしてきたのは、常に物事をポジティブに捉えていたいという気持ちです。
見習いからこの世界に入り、たくさんの現場で経験を積ませていただきましたが、ただの一度だけ「辞めたい」と思うことがありました。そんな料理人最大のピンチを救ってくれたのも、そうしたポジティブ思考だったんです。
「観察力×ポジティブ思考」で開いた料理人の扉
米澤氏:そうした考え方は、母親譲りの部分があるのではと思っています。私が生まれたのは浅草で、いわゆる下町育ちです。父は勤め人ではあったものの、やはり典型的な江戸っ子で頑固タイプ。何かあるとすぐにへそを曲げてしまう父に、献身的に尽くしつつも、どこかさらりと受け流す母。嫌な顔ひとつ見せないその姿が、私の性格にも多分に影響していると思います。
そうした両親の元に育った私ですが、小さい頃から、どこか理屈っぽい子どもだったようです。両親の性格を分析したがるのもそうですが、他者の行動を観察してしまうようなところがあったんです。そこで、ある日、人の気持ちがわかるのなら、それに応えていこうと思うようになりました。無理してそうしようと思ったのではなく、応えることで人が喜んでくれるのが嬉しかったんです。そして、それは料理でも同じでした。
私は、家の料理の手伝いをするのも大好きで、納豆をかき混ぜるのと、みそ汁の味噌を溶かすのが自分の担当でした。それも、家族が目の前で喜んでくれるのが嬉しくて、褒めてくれればくれるほど、次から次へと料理を覚えたいと思うようになり、しまいには手伝いの範疇を超えて、料理の品数を増やしていました(笑)。
私は、音楽と体育と家庭科以外、おおよそ勉強と名のつくものは、からきしダメだったのですが、母は私の性格を見越してか「そんなに料理が好きなら、将来は料理をする人がいいかもね」と、自分がこの道に進むことを後押ししてくれた最初の人でした。私はそれ以降、一度も親から「(学校の)勉強をしなさい」と言われたことはありません(笑)。
――親からの“お墨つき”をもらって。
米澤氏:幸運にもそうして、早いうちに好きなことを見つけることができて、親も認めてくれたので、早く料理の世界に飛び込みたくて仕方がありませんでした。それでも親からは、高校までは出ておきなさいと言われ、それには、しぶしぶ従うような形でした。高校の3年間はとにかく勉強そっちのけで、チェーンの居酒屋やデパートのビアガーデン、屋形船のお仕事など、とにかく飲食に携われるならと、アルバイト三昧でした。
すべてにつながる「基礎」を作った修業時代
米澤氏:ようやく高校を卒業して、私は「イル・ボッカローネ」という、今も恵比寿にある、イタリアンの草分け的存在のお店で、修行させてもらうことになりました。実は最初、学校を卒業したての18歳では“子ども”扱いされ、受けつけてもらえませんでした。
でも私は、どうしてもそこで働きたかったので、「はいそうですか」と引き下がるわけにもいかず、直談判した結果「まずは一週間様子を見よう」と言われて。そうして、この世界での最初の一歩をなんとか踏み出せました。
――ようやく踏み入ることのできた料理の世界。
米澤氏:それが私は、初っ端から「使えない人間」だったんです。やることなすこと全部ダメ。料理以前の、人としての礼儀、社会人としての言葉遣いから直される始末でした。それでも、なんとか諸先輩方のおかげで、最低限のレベルまで引き上げてもらったのですが、そこから先も、とにかくすべてが勉強の日々でした。
オーダーを取るためにイタリア語を覚えないといけませんし、さらに料理の説明もお客さまにちゃんとできるよう、料理の名前はもちろん、どんな素材を使っていて、それがどんな背景を持つ料理なのかを、知っていなければなりませんでした。とにかく覚えることが山ほどあって、毎日必死でしたね。人生の中で一番勉強した時期かもしれません(笑)。
どの世界も同じかもしれませんが、ある時期においては、がむしゃらにやっていくことも必要だと思います。そして、変にお利口に指示をこなすよりも、不器用に実直に、自分の頭で考え理解しながら、基本を身につけていくことが大切なんだと思います。なまじお利口に、言われたことをそつなくこなせても、それは「作業」になってしまい、一歩外に出ればそうした「作業」で得た技術なんて一円の価値もなくなってしまうんです。
不器用なほうが、学ぶことにおいては有利だと思っています。これは、今お店のスタッフにも言っていて、料理は「つくりたい」と思えば誰でも確実にできるようになる。料理ができるようになるのは料理人として当たり前。そこから先に必要なのは、そうした不器用な行動だと伝えています。
例えば、「カリフラワーを毎回同じ大きさに切れる」といったようなことのほうが、よっぽど大事なことだと思うんです。私自身、今でも心のどこかにある、自分の「器用でお調子者」な部分を常に警戒しています。
「憧れ」のようなものを感じて、とにかく追ってみることも必要だと思います。私の場合、それはお店の先輩方が、お客さまとのやり取りの中でイタリア語や英語などを流暢に話す姿でした。ですから、この時期は料理に関する知識のための勉強はもちろん、接客に必要な外国語も勉強していました。それまで自分は勉強が嫌いなんだと思い込んでいましたが、興味さえあれば自らすすんで学べるものだと、この時に実感しましたね。
恵比寿で働いていたこの頃は、右も左も分かっていない自分でしたから、たしかに大変だったと思います。でも、振り返ってみると、こういう時間こそが、今の自分の基礎になっているとわかります。正直「逃げ出したい」と思うことは何度もありましたが(笑)、「辞めたい」と思ったことは一度もありませんでした。それは、料理の現場で学べる喜びの方が圧倒的に多かったからです。「きつい」と感じた時は、常にそう考えていました。