・雑談力の有無が、時にビジネスを左右する
・素養を培い、磨く有効な手段が読書
・物を書くためには読まなきゃならない。読むためには書かなきゃならない
1944年、東京都生まれ。青山学院大学経済学部卒業後、「朝日イブニングニュース」の記者となる。1971年にオハイオ州立大学で修士号(ジャーナリズム)を取得。「シンシナチ・ポスト」経済記者から1973年、PR会社バーソン・マーステラのニューヨーク本社に入社、1985年に日本ゼネラルエレクトリック(GE)に取締役副社長(人事・広報担当)として移籍。1987年からバーソン・マーステラ(ジャパン)社長、電通バーソン・マーステラ取締役執行副社長を歴任。2007年より現職。 著書に『人生を考える英語』(プレジデント社)、『人を動かす! 話す技術』(PHP新書)など。NHKラジオ「実践ビジネス英語」の講師も務める。
雑談力を身につけられる「実践ビジネス英語」
――NHKラジオ「ビジネス英語」の講師を、1987年より務められています。
杉田敏氏: その昔、『Asahi weekly』で二年ほど連載したものが、『アメリカン・ユーモアの構造』(朝日新聞者)として、本にまとめられました。アメリカの習慣や歴史、バックグラウンドを知らないと解けない、笑えないジョークを中心に書き記しました。その後に旺文社から出た『戦略的ビジネス英会話』(旺文社)がNHKの担当者の目にとまったんです。最初はテレビ番組でしたが、二回ほど出演した後「ラジオで半年やってくれませんか、その後は再放送ですから、何もしなくていいです」というお話を頂き始まったんです。結局、一年ごとに「やっぱり次も」と言われ続け、もうすぐ30年(笑)。その間、一年半だけ番組を降りたこともありますが、リスナーからたくさんのお手紙を頂き復帰して今に至ります。
数年前に会った某県の知事さんも昔からのリスナーで、私自身忘れてしまったような番組で話した内容もよく覚えてくれています。池上彰さんは『学び続ける力』(講談社)の中で、放送をずっと聞いていて、アメリカのビジネスの最新事情もあわせて学ぶことができる貴重な機会だったと書いてくれていました。山中伸弥先生も昔聞いてくれていたと聞き、驚きました。講演会などでも、「昔から番組を聞いていました」と、初期のテキストを見せてくれる方がいたり、サインを頼まれたりすることもありました。
――放送では杉田先生の身近なエピソードがふんだんに盛り込まれています。
杉田敏氏: この間は孫娘のことを書きました。孫娘は幼稚園に通っているのですが、父の日にアンケートが回ってきたんです。そこには「あなたのパパの好きな所はどこですか?」とあって。孫娘は「ハワイ」と書いたんです。質問の意図は「あなたはパパのどこが好きですか?」だったのですが、書き方によってはこのように誤解を与えてしまいます。誤解というのはいつでも生じるという話を書きました。
シンガポールに住んでいる息子一家に送ったら、とても面白がっていました。その息子が大学生のとき「アメリカのティーンエイジャーはみんな親のことをバカにしてるらしいけど、お前はどう?」と聞いてみたことがあります。「そんなことないよ。」という息子の返事に、内心ほっとしていたら「ティーンエイジャーってさ13からでしょ。俺、九歳ぐらいからバカだと思っていたよ」と言われて……(笑)。
英語を学ばせてくれた先生たち
――先生と英語との出会いは。
杉田敏氏: 皆さんと同じように中学に入ってから本格的に英語を学ぶことになります。初めて始まる授業ということで、とても期待していました。ところが一学期の間は、英語の先生が病気で、自習が続きました。二学期になりようやく教えてもらえると思ったのですが、先生の英語力はお世辞にも褒められたものではありませんでした。嘆いていても仕方がないので、自分で勉強することにしました。英語以外の面では凄くいい先生で、亡くなるまでお付き合いは続きました。「私が英語に興味を持ったのは、あなたのおかげです」と冗談を言ったこともあります。
先生に期待できなかったので、家庭教師を親が付けてくれました。千葉大学の医学部の学生でした。しかし、この人も学校の先生に輪をかけて英語力がなかったんです(笑)。教科書のレッスン1では普通 I am a boy. とか、This is a pen. のような例文から始まるのですが、そのとき使っていたテキストには「A dog.」「A big dog.」とあったんです。家庭教師の先生は、それを見て考え込んでしまって……。 その教科書は、研究社から出たもので、文化功労者の福原麟太郎という、イギリスに長い間いた英文学者が作った本でした。福原麟太郎の本というのは非常に特異な本だったので、文部省の認可を得られず、私の年代ぐらいが使っただけで、以降はもう使われなくなったというぐらいユニークなんです。 「英語というのは大文字で始まってピリオドで終わる。これが文です。」と言ったしょっぱなの例文が、さっそく例外で始まり先生は頭を抱えてしまいます。日本語でも、文について考える機会はなかなかありませんでしたが、外国語を通じてその構造に興味を持つようになりました。
神田の江戸っ子、コメディアンを目指す
杉田敏氏: 私は、記憶力だけは凄く良くて、単語を一回見ると意味だけではなく、見た日付や載っていた教科書のページまで覚えてしまいます。書店や図書館で本を読み、知識を吸収しては、先生に難しい質問をして困る顔を見て面白がっていました。のちに大学教授になった先生に再会したとき、思わず声をかけたらギクッっとされていました。ずいぶんと、いじめたんだなと思いましたよ(笑)。
もう一人、のちに神主になった岡本先生は演劇部の顧問だったこともあり、卒業後も親しくお付き合いさせていただきました。『ロンドン―東京5万キロ 国産車ドライブ記』(朝日新聞社)という、おすすめの本を貸したこともありました。この本は、朝日新聞で辻豊さんという方が連載していたもので、トヨタの車で、ロンドンから東京までのドライブの模様が書かれたものでした。僕はこの連載をいつも楽しみにしていました。
下町だったからでしょうか。先生に「お前たちはみんな商人の息子だから、お金に換算したほうが飲み込みやすいだろう。だから遅刻のバツは、一回につき十円の罰金とする」と言われて、教室にある大きな花瓶に没収されていました。でもその十円はちゃんと、運動会でのみんなのお菓子代にあてられるんですね。良い時代でした。
――杉田さんのご実家は東京の……。
杉田敏氏: 「神田よぅ!(江戸っ子風に)」……なんだけど、グリム童話に出てくるようなちっちゃい靴屋で(笑)。演劇部にいましたし、NHKの東京放送児童劇団にも所属していたので、家業を継ぐつもりはなく、テレビで活躍するコメディアンになりたいと思っていました。結局才能がないと諦めましたが、今でも同窓会で劇団の方が集まると、「君は下手だったねぇ」とか言われています(笑)。
小学校の学芸会で落語をやったり、末広亭という寄席がまだ人形町にあったのですが、そこへ行って落語を聞いたりしていましたね。そしてクラスで落語をやったり、それから英語で漫才をしたりもしました。
いつの間にか英字新聞の正社員に!?
杉田敏氏: 大学ではESSに入って英語でディベートをしたり楽しい時間を過ごしました。学友とは、未だに毎年会っています。大学四年生の時には、先輩に誘われた「朝日イブニング・ニュース」で週三、四ほど働いていました。「よく来るから」と、気付かないうちに、正社員になっていて、ボーナスももらいました。インタビューや取材にも随分と行きました。そこに六年いましたね。この頃は、あまり物事を考えていませんでした(笑)。
ただ、それまで一度も外国に行ったことがないのはもったいないと考え、オハイオ州立大学でジャーナリズムとPRを学びました。PRも学んだのは、ニュースを自分で書くのもいいけれど、書いてもらうのも面白いと感じたからです。ジャーナリズム学科の中で、PR、ジャーナリズム、広告と、三つに分かれていました。さらにジャーナリズムの中でもテレビと新聞に分かれていました。 アメリカ人の中でもさらに文章にこだわる部類が集まる訳ですから、彼らと英語力で競争して単位を獲得するのは容易ではありませんでした。
深い雑談力で、本物のコミュニケーションを
――代表を務めるこちら(株式会社プラップジャパン)では、プラップ大学と呼ばれる社員教育制度があります。
杉田敏氏: 社員に望むことの一つがソフトスキルです。英検やTOEICなどの資格といったハードスキルと違って、コミュニケーション力や、交渉力、雑談力、ファシリテーション力などなかなか可視化出来ないスキルです。これを社員一人ひとりが互いに努力し、向上させる制度です。コミュニケーションというのはなかなか難しいもので、ビル・マーステラ氏の著作には「コミュニケーションが病気でなくてよかった。私たちはそれについてあまりにも知らなすぎる」とも書かれています。奥が深く、これで極めたということはありません。
その素養を培い、磨く有効な手段が読書です。物を書くためには読まなきゃならない。読むためには書かなきゃならない。私もそろそろ年なのか、最近はあまり読書に時間を費やすことも昔ほどではなくなりましたが、このあいだお会いした池井戸潤さんや、桐野夏生さんの本は読んでみました。