シリーズ「ほんとのはなし」好評連載中

丹羽昭尋さん「自他の喜びを掛け合わせる」インタビュー

「人の喜びの延長線上に自らの喜びを」――企業の営業・販売支援チーム「Office Niwa」の代表兼ディレクターを務める丹羽昭尋さん。ホテル、建築、家電……様々な業界で、人の喜びと幸せを追求する「お役立ち活動」を実践してきました。人の役に立ち、何事も諦めない活動はやがて、売り上げ日本一という成果に繋がりました。その想いとノウハウが込められた近著『日本一の売る技術』は、幸せを考える丹羽さんならでは想いがたくさん盛り込まれています。そんな丹羽さんの「幸せへの想い」の原点を伺った「ほんとのはなし」お届けします。

こんな話をしています……

「お役立ち活動」の原点は、こだわりを持って接客する祖父母の姿

LDという学習障害を持っていて、特に「聞く、書く、読む」ことに非常に苦労した

書くことはおろか読むことすら苦手な自分が本を出すのは、どう考えても現実的ではないと思っていた

行動してみる、進むことで見えてくる新しい世界を見てみたい、という想いが自分を動かしてきた

丹羽昭尋(にわ・あきひろ)氏プロフィール
Office Niwa代表兼ディレクター

1976年山口県周南市(旧徳山市)生まれ。高校3年時から阪神淡路大震災の復興ボランティアに参加し、活動の傍ら大阪有数のホテルで接客に従事する。その後、建設会社数社で設計営業などに携わり、独自の営業ノウハウを確立。帰京後はヤマダ電機で家電コンシェルジュとして従事し、入社1年目で「個人売上日本一」を受賞するなど活躍。大手アパレル、自動車業界のオファーを経て、現在「Office Niwa」の代表として、全国様々な企業の現場で直接支援や研修、講演をおこなう。さらに、クリエイティブな活動で、活躍の場を広げている。著書に「日本一の売る技術」(きずな出版)

“お役立ち活動”を実践する営業・販売支援チーム

――販売支援チーム「Office Niwa」について伺います。

丹羽昭尋氏:コンサルティングが主な業務ですが、数字面も大切にしつつ、さらにもっと根本的な現場の“人”の成長に特化した取り組みをおこなっています。一般的に各業界で営業に携わる方、小売りや量販店の販売に携わる方は、プロモーションなどを会社任せにして、自らは反響待ちという方も少なくないでしょう……ただこのような時代は終わりをつげ、これからは、個々で率先してアクションしていくことが、現場の人の成長になり、継続的な自社ファンにもつながり、ひいては売り上げ、社会の利益に繋がっていく「ハッピーサイクル」の時代だと考えています。お客様と最前線で接する営業、販売に携わる方々とチームを組み、実務支援をしていくのが「Office Niwa」の活動です。

また、私の本来の役職は代表です。ただ、チームという意識から、公にはディレクター丹羽昭尋として活動しています。私は、「目線の高さを合わせる」と言っていますが、スキルをトップダウンで教えるではなく、常に対等に向き合い、一緒になって取り組むことで、現場の方が自ら考えて継続できるスキルを身につけていくことを心掛けています。私が実地に入っているのは、そのためです。数の大小ではなく、本当に伝えられるかを考えて、「お役立ち活動」を実践しています。

――「お役立ち活動」とは。

丹羽昭尋氏:私がキャリアをスタートしたホテル時代から、建設、電機店と様々な業種を経験する中で、常に大切にしてきた活動です。様々な分野で、必ず人の喜びがありましたが、「お役立ち活動」は、売り上げ数字に惑わされないお客様本意のものです。お客様の幸せの延長線上に、私たちの幸せがある……その原点は、小さな頃に感じた喜びからでした。



人の役に立つ喜びを知る

丹羽昭尋氏:私は山口県周南市(旧、徳山市)という所で、東京都葛飾区出身の父と周南市出身の母のもとに生まれ、6歳までそこで育ちました。父はゼネコンに勤めており、母もパート勤務でいわゆる共働きでしたので、保育園に通う以外の時間は祖父母と一緒に過ごすことが多かったですね。 祖父母はJR徳山駅近くでビジネスホテルを経営しており、幼い頃から遊び場はホテルでした。

小学生くらいになると、ホテルのお手伝いをしたりお客さんと会話したりするようになりますが、そこで働くことが楽しく感じていて、「仕事=楽しい」と刷り込まれたように思います。 決して大きなホテルではありませんでしたが、私の「お役立ち活動」の原点は、こだわりを持って接客する祖父母の姿にあります。祖父母ともに90歳近い年齢ですが、今でも元気にやっていますよ。

――接客を通して、コミュニケーションは自然と……。

丹羽昭尋氏:実はそうでもなくて……本来は極度の人見知りです。私の性格を心配して、父は野球や剣道に水泳、習字など色々習いごとをさせてくれていました。剣道は父が指導者という事もありまして、またアトピー性皮膚炎を患っていた私の症状改善のために、早朝5、6時からの素振りが日課となっていました(笑)。

そのおかげで、人見知りだった性格は少しずつ改善され、アウトドアや子どもの遊びを教えるレクリエーションリーダーを務めるまでになりました。「相手に喜んでもらえるだけでなく、こちらも自然と笑顔になれる。」自分の場所はここではないか、と感じるようになりました。

地域貢献や社会福祉に対する関心が芽生えたのは、その頃ですね。 ところが、そうした幸せな状況は小学校高学年になると一変しました。私の家系は高学歴の人間が多く、私もご多分に漏れず「大きくなったら東大へ」と、祖父から言われ続けていました。父からは、塾やドリルなどのノルマが大量に課されるようになりました。

実は私、LDという学習障害を持っていて、特に「聞く、書く、読む」ことに非常に苦労しました。たとえば国語の時間。起立して、クラスのみんなの前で教科書を読む時など、一字一句全く頭に入ってこない有様で、相当つらいものでした。

そうした状況でアトピーも悪化し、さらにクラスの中でいじめの標的にされるのですが、家に帰れば厳格な父と、行き場を無くして宗教にのめり込んでしまった母がいる。登校拒否になり、しまいには他人も自分自身にも嫌気がさしてしまい、中学校1年の夏ごろには家出をして1ヶ月間以上放浪してしまいました。

――1ヶ月間も……。

丹羽昭尋氏:手持ちのお金と言えばお年玉くらいしかありませんでしたが、東京から祖父母のいる山口、広島方面まで電車や歩き続け、幸いレクリエーションリーダーをやっていたことが野宿やサバイバルの旅を実現できたと思ってます(笑)。 逃げ場所もなく、とにかくどこか別の場所に身を置いて考えてみたかったのだと思います。

家出中には色々考えましたが、結局、東京に帰ってきて中学校を変えて、なんとか3年間を過ごしました。その後、入学することが出来た高校も、心を開くことなく学習障害の症状も打ち明けられず、苦しい日々を過ごしました。

転機になったのは、高校卒業時に起きた阪神淡路大震災でした。受験シーズン真っ只中でしたが、登録していた社会福祉協議会から連絡を受け、数日後には神戸の避難所になっていた小学校でボランティア活動に参加していました。

このとき、私は支援する立場でしたが、人のつながり、助け合いの素晴らしさを被災者の行動から教えてもらいました。私も、人の幸せのために誠心誠意生きていく道を歩みたいと思うようになりました。

自ら前へ 未知の世界を進んでいく

丹羽昭尋氏:そこからが私の人生の再スタートとなりました。自らが行動を起こし、諦めない心で進んでいく。受け身だった私は、自分で率先して前に進んでいくことを決めました。 社会人としての最初の仕事は、祖父母や親族の影響がありますが、あえて苦手な接客を克服するためにホテルマンを選びました。それから飲食業界にも携わるようになり、そこで今に繋がる接客の礎を学びました。

ただ、震災の経験から家屋への重要性、関心が年々強くなり、24歳からは建築関係の道へと進みます。一級建築士の資格を持っていた父の影響もあり、小学生の頃から新聞のチラシに入っている住宅関連の間取り図や、建築専門書などを見て、分析することが好きでして、建築にはずっと興味を持っていました。

「やるからには、とことん」ということで、日本古来の伝統構法や名匠のメッカで、銘木の産地である岐阜県の材木業兼建築事務所に弟子入りすることにしました。木材の製材から、建材の営業、伝統構法住宅の設計営業(営業、設計から積算、管理)、営業所長として携わりました。 この時代に、「お役立ち活動」の基礎が出来ました。

建築現場周辺の近隣の方々に、お役立ちする心で、挨拶回りをしながら「暮らしの相談員」を開始し、次第に信頼関係を築き、もし家の調子が悪いと聞けば、その場ですぐ直すなどをして、それをきっかけに修繕、改修、新築、ご紹介の連鎖になり、さらに施主の方の今後につながる地域貢献も実践していました。

相変わらず人前に立つことは凄く怖かったのですが、一方で誰かのための活動と、自分が生きていく術が重なったことで、これこそが自分の働き方だと思うようになりました。

「お役立ち活動」を伝える 本に託した想い

丹羽昭尋氏:30代前半、家庭の事情で東京に戻り、そのきっかけで新たな目標を掲げました。ただ完全なリセットではなく、自分の営業スキルや設計提案力、コーディネート力、お役立ち活動をフルに活用できると思い、あえて業界最大手の家電量販店に飛び込みました。

いち契約社員から始めましたが、そこでは組織の仕組みを教わりました。今まで独学でやってきた自分の活動に、言葉として客観性を持つことができました。 また、商品を知り尽くすことはある程度大事ですが、根本的に接客を楽しむことが重要だと、それまでの経験で感じていましたので、そこでも「人の幸せ」をモットーにやっていこうと決めました。

名札には、「日本一になります!日本一のサービスをします」と書いて宣言しましたが、日本一というのは、売り上げ数字が先ではなく、あくまでもお客様の満足でした。

――そうした想いを、本に込めて書こうと思われたのは。

丹羽昭尋氏: 当初は、書くことはおろか読むことすら苦手な私が本を出すのは、どう考えても現実的ではないと思っていました。けれど、今までお世話になった人や会社に対して、恩返しが出来ればと思い、筆をとることにしました。実際に書き出す作業は数ヶ月でしたが、その後、出版エージェントや出版社とも何度もやり取りを重ね、結局1年かかりましたが、おかげでほぼ納得のいく本をお届けできるようになりました。

私が書くということで、誰にでも読めるような本にしていこうと、編集者の方には内容から字の大きさに至るまで、色んな要望を盛り込んでもらいました。接客技術だけでなく、普段の心構えなど社会人としての基本とも言えることもあえて書きました。

礼儀や挨拶などは、プロとか玄人になってくると忘れがちですが、普段からこれが出来ていないと、仕事にも表れてきますし、レベルが問われるところでもあります。 また、自らの意思や目標をしっかり持つことの重要性についても言及しています。ブレない意思が大切で、気持ちの乱れはお客様にも伝わります。普段のことや、事前の準備にも多くのページを割いています。

スタッフをエンターテイナーに 売り場をエンターテイメント空間に

――応援のメッセージが詰まっています。

丹羽昭尋氏:行動してみる、進むことで見えてくる新しい世界を見てみたい、という想いが私を動かしてきました。また、決して社交的ではなかった私が、諦めずに進み続けることが出来たのは、経営コンサルタントをしている父が顧問先用に作っていた「経営戦略マニュアル」のおかげでした。

実は今から15年前、父はアトピーを長年患っていた私のことがきっかけで、『家族「暖」らん―ココロとカラダのシックハウスを予防する』(文芸社)という一冊の本を書きました。そうした経験が元となって、私も同じように悩んでいる人に届くようにと応援の想いを込め書きました。

――今、丹羽さんが向かっているのは。

丹羽昭尋氏:たかが接客、されど接客。常に原点を忘れず誠心誠意取り組むことで、さらに良い接客を目指していきたいですね。そして、やればやるほどその奥深さも見えてきます。どんどん新しいものが見えてきます。終わりはありません。

私たちは、お客様の満足を求めていますが、その満足に満足してしまっては今後のプラスはないと考えます。お客様の期待を超えてこそ、一皮むけた接客のプロ、エンターテイナーとなることができると思います。そうしたエンターテイナーを増やし、会社や売り場をエンターテイメント空間にしていきたいですね。

目先だけでなく、将来にわたって、「人」を考えられる仕事をする。お客様の心に残る仕事を自らがプレーヤーとなり実践し、チームでの支援を通じて伝えていく。天職かどうかは正直わかりませんが、ただ周りから喜んで頂けるのであればそれで良しとしています。