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高橋宣行さん(プランナー)「創造に正解なし、考え続けるのみ」インタビュー

コピーライターとして、また博報堂の制作部長として、日本を代表する数多くの企業の広告制作に長年携わってきた、プランナーの高橋宣行さん。博報堂を退職後も、企業セミナーやコンサルティング、また文筆業に活躍の場を広げています。日本経済の発展、社会状況の変化をつぶさに見てきた高橋さんに、変化に適合しながら、クリエイティブな仕事をするための心得など、「ほんとのはなし」を伺いました。

こんな話をしています……

・(トップは)よきクリエイターであり、よきアーティストたれ

生き方以上の発想はない

考える基本姿勢を手渡したい

高橋宣行(たかはし・のりゆき)氏プロフィール
1940年生まれ。1968年博報堂入社。制作コピーライター、制作部長を経て、統合計画室、MD計画室へ。制作グループならびにマーケットデザインユニットの統括の任にあたる。2000年より関連会社役員を経て、現在フリープランナーとして、さまざまな企業のプランニングならびにアドバイザーを務める。 近著に『キーメッセージのつくり方』(ディスカバー・トゥエンティワン)、『高橋宣行の発想ノート』(日本実業出版社)、『「差別化するストーリー」の描き方』(PHP研究所)など。今年9月20、日本実業出版社より『高橋宣行の発想フロー』を出版。

高橋宣行『HOW TO THINK』― いかに、考えるか ―

「体験(現場感)」を本で手渡す

――近況を伺います。

高橋宣行氏:セミナーや企業のブランディングをやりながら、ここ6、7年くらいは、基本的に本の執筆を中心にゆっくりやっています。この混沌とした時代において多少なりとも人の役に立つにはどうすればよいかと考え、1年に1~2冊ぐらいのペースで、本を手渡していきたいと思っています。「また同じことを書いている」と言われないように努力していますが…。

「知る」ことはハード、ソフトも含めてどんどん進み、至るところから情報は手に入ります。僕自身も、デジタルを拒否しているわけではありませんが、僕はアンダンテな生き方というか、普通を、自然体を大切に生きていけると感じています。いち早く知ることよりも、感じることや、考えることにスポットを当てていきたい……。アングルを変えながら、「いかに考えるか」ということや、もっと右脳を働き者にしようということを提案をしていこうと思っています。

――現場で得た体験を、本で手渡していく……

高橋宣行氏:昔勤めていた広告会社では、現場では川下(生活者)を、現場を外れて管理の方からを川上(マネジメント)を見ました。そうすると企業社会が見えてきて、さらには世の中全体が見えてくる。そういった自分の成果の中で、後輩たちに何を手渡せるかと考えた時、「考える基本姿勢」といったものに集約されました。

情報をどうやって加工して、料理して、今風のテイストにして世の中に送り出すかは、企業や商品、あるいは事業やサービスに関わるあらゆる課題解決と一緒です。時代のスピードにハウツーでは追い付けない。いろんな概念が入り混じっていて、いろんな悩みがぐちゃぐちゃになっているから、そこに創造性がないと問題解決は難しいのです。

基本的にはクリエイティビティが全ての競争力になっていくのではないかと思っています。「いい経営者はいいクリエイターだ」と言われますが、部分、部分はそれぞれ現場の人たちが作っていけばいいけれど、最初に引っ張っていく全体の戦略や構想はトップの人が考えていかないといけませんから、やはりトップはよきクリエイターであり、よきアーティストでなければいけません

昔は広告会社の制作は、言葉が主体で、いい言葉やトレンディな言葉をみんなが探していた時代がありました。物が少なかった時代は、どちらかと言うと文才のある人が求められる部分もあったんですが、時代が成熟していくと、物や企業、あるいは事業を動かすなど、あらゆることにおいて戦略的に物事を組み立てていかないといけない。全体最適が問われていくのです。その時、何に物事がつながるか分からないから、360度好奇心を持って物事を見る習慣をつけていくことと、企業全体から物を見る、世の中全体から物を見るというスタンスは、わりと早めにできたと思います。



「アドマン」への憧れ

――コピーライターの仕事に就こうと思われたのは?

高橋宣行氏: 僕は日大の出身で、1年生の時は三島キャンパスだったのですが、下宿先の寮母さんの息子さんが日大の工学部を出た先輩で、いつも部屋に『財界』や『ダイヤモンド』などが何十冊も積んでありました。その中で、「今ニューヨークのマディソン・アベニューという広告会社が集まった街があり、そこで『アドマン』といわれる人が活躍してるんだ」という話がひとつ。

もうひとつは「セールスマン」たちの存在は、日本では当時「外交」と言われていたのですが、向こうではカレッジを卒業した人たちがセールスマンとして物を売る時代になってきているという話。

この2つのトレンドを聞き興味を持ったんです。どちらか悩みましたが、僕は話をするのも、人に会うのも苦手なので、広告業にしようと決めました。

当時、広告と言えば化粧品メーカーか製薬会社だったので、1年生の頃、武田製薬と資生堂に、「広告の仕事をやりたい」と手紙を書きました。アート系ではないけれど、経済学部で仕事に就けるものなのかどうか、という内容でした。向こうもどこまで丁寧に書いていいのか分からなかったと思いますが、調査やコピーライターという仕事があること、当時は文案家という言葉も残っており、文案を書く人がいるという返事をいただきました。

幸いなことに、2年生で東京に出てきた時、出来てまだ2年目の広告研究会というのがあったので、そこに入りました。当時、森永製菓が資金援助をして、東京の六大学の広告研究会の学生たちに、鎌倉で「森永キャンプストア」というお店を提供してくれていました。日大の広研はまだそれに入れてもらえる力もありませんでした。3年の時に森永製菓へ行って「自分たちの体制がこういう形になってきて、単なる理屈だけではなく、現場の中でそれをやってみたい」という提案をして、ようやく4年の時には、資金をいただき参加させてもらえるようになりました。

今もあると思いますが、この4年生の時に、コピーライター養成講座に半年間通いました。でもそこを修了した時には、もう電通や博報堂などはもう試験が終わっていて(笑)、それで萬年社(本社大阪)という広告会社に入ったのがスタートでした。

――当初、広告はどのような会社のものを手がけられたのでしょうか?

高橋宣行氏:僕が大学を卒業した頃というのは、戦後17~18年、日本中貧しい時期だったわけです。その貧しい中で、人も物も常識を知らない人間が広告屋に入って、「マス」に対してものを話そうとする…。いかに無謀なのか、コミュニケーションで物を動かすことが大変かが分かりました。

社会人1年生というのは、基本的には金を取る身ではない。何も知らない人間がうかつに得意先のお金を預かって、勝手に言葉だけを書いていくのがいかに不遜なことなのかというのを先輩から教わりました。そこで、現場主義を徹底させるわけです。

コピーライターになった時は、僕は3カ月間、毎日銀座の松屋に行って、8階から地下まで降りて、商品やお客様や広告、装飾、あるいは店舗の空間を見て、帰ってきてから感じたことをノートに書いていました。朝から松屋を歩いて午前中はそれで終わる。次の3カ月は、東京本部へ行って、銀座1丁目から8丁目までを3往復も4往復もし、タウンウォッチングするのです。通る人、ショーウィンドウ、商品や、ファッションなど、あらゆることを見、身体の中に入れていくのです。

萬年社ではリコー時計の仕事をしていたのですが、その仕事が全部東急エージェンシーに移ったので、制作者3人と営業1人で東急エージェンシーへ行きました(転職しました)。その後、時計の世界がセイコーとシチズンの方へどんどん動いていき、担当する業界の状況も悪くなり、もっと制作する場が欲しくて、博報堂に入りました。ちょうど東京コピーライターズクラブというところの新人賞を獲り、会員になったんですが、それがきっかけになって博報堂へ。博報堂入社のその日から味の素のマヨネーズの立ち上げ、同時に富士フィルム、花王、住友不動産などの仕事につきました。

――当時どういったお気持ちで仕事をされていましたか?

高橋宣行氏:日本の経済が家電品も含めて一気に上昇し続けている時代ですから、いつもワクワクしていました。一緒になって成長していくといった体験ができて、我々は本当に素晴らしい時代に仕事に就いたと思っています。高度成長や、オイルショックがあったり、貧しい時期も、物余りの時代も、人はどうやって動いているのかというようなことも含めて見てきました。いま、どのような時代になっても、ブレたりずれたりするような判断はしないで済むようにはなっていると思います。

山は「生き方」を教えてくれる

高橋宣行氏: 北海道の滝川で1940年に生まれて、次の年は戦争でした。終戦を迎えたのは5歳の時で、その後、小学校の頃に札幌に移りました。どちらかというと外へ出歩く方が好きで、好奇心も旺盛でした。父に似たのか、家で本を読んでいるよりは外に出て遊んでいる方が好きでした。近くに藻岩山があったので、スキーなどをしたり、中島公園というところの池が広くて、そこが凍ると市民のスケートリンクになっていましたから、スケートもしていました。

当時は、長靴にスケートの刃を縛り付けて、寒い時期には道路も凍っていたので、道路で滑ったりもしていました。 高橋宣行氏: 当時『少年少女文学全集』が家に全巻そろえていたので、昔の少年少女が読んでいるような本は一通り読んだかもしれません。本を夢中になって読んだという記憶はありませんが、貧しい中でも本があるというのは、すごくラッキーだったんじゃないかなと思います。ただ、僕が目が悪くなったのは、当時の暗い電球の下で寝ながら読んだのがいけなかったのかもしれません。

文学作品からはイキ、僕自身のメンタルも含め、人生のあらゆる局面で影響を受けたのは、深田久弥さんの『日本百名山』です。「山にはこういう歩き方、見方があって、それが生き方にもつながるのか」と、非常に感銘を受けました。僕は2000年に、日本百名山完登しました。高校時代に友達が登山部にいて、百名山の一番目の利尻岳という北海道の山に、連れて行ってもらったのが初めての登山経験でした。

その後、会社に勤めている時、私の姉が横浜に住んでいて、その近所の山好きの人が、僕を谷川岳へ連れて行ってくれたのをきっかけに、少しずつ登るようになりました。コピーライターで朝から晩までひたすら働いて疲れ切っていると、当時の制作部長が「高橋君、休んで山でも行ってきたら?」などと優しい言葉をかけてくれたこともありました。その方は「物も人も分からない人間が、得意先の金を使って広告を創るようではいけない」とよく言われ、先ほどの「松屋を上から下までウォッチング」ということを言われたのも、その制作部長でした。

――登山の魅力

高橋宣行氏: 精神性のようなところです。いつでも逃げられる。「やめようかな」などと時々思いながらも、耐える、粘る、頑張って登る。昔は体力に任せて、とにかくただひたすら登っていたものが、年と共に山から見える景色が違って見えたり、足元の感じ方が変わってきたり、だんだん視野が広がってくる。例えば、高速を走っていると周りがあまり見えないけれど、農道をゆっくり走ると周りの景色が見えてくるのと同じように、年と共に、スロースピードになって、見える範囲も感じ方も変わってきました。登山の体験はいまも生きています。

変わるもの、変わらないものを見続ける

――本を書かれるようになったきっかけを教えてください。

高橋宣行氏: 「明日までに考えておけ」とか、「もう少しいいアイデアないのか」などと、どの会社にいても「考えろ」と言われますよね。仕事の大半が課題解決なのですから…。でも、何を、どこから、どういう風に考えていったらいいのか。「HOW TO THINKING」といったものがあるようで意外になくて、先輩も教えてくれない。出てきたものに対して、色々批評はできても、考える基本姿勢といったものを教えてくれるものが少な過ぎるんじゃないかなと思ったのが、本を書くきっかけになりました。

40数年間、広告に携わってきましたが、そこでの経験談で終わるのではなく、色々な会社で話をしてもずれなくて済むのは「考え方」というベースの部分があるからだと思います。創造というのは人と違う新しいものを作りだすことだとすると、正解なんて絶対にあり得ないわけです。正解を出そうとすると、すでにあるものに合わせようとするから、オリジナルではなくなります。正解がないんだから何を考えてもいいけれど、周りが「なるほど、そんな考え方があったのか」と思うようなリアリティがあるとか、共感性があるのがきっといいアイデアなんだろうなと思います。そのリアリティって体験や経験がないと生まれにくい。私が「生き方以上の発想はない」とよく言っているのは、こういう意味でもあるのです。

――独りよがりにならず、共感を得るためにはどうすればよいでしょうか?

高橋宣行氏: 何が本質的に大事なのか、というのを考えるということです。ビジネスは常に相手がいて成り立つわけですから、相手の立場で考えなくてはなりません。僕がコピーを書いている時、よく上司に横から、「こんなこと書いていて人が喜ぶの?」と言われましたし「根っこがないぞ」とも。

管理の方になってからも、社長に「現場をこういう風に変えたい」と言うと、「それで現場は喜ぶの?」などと言われました。相手のことを知らないで、ひたすら「いいものだ」と作り続けても「相手にとって何が一番必要なのか」ということを外してしまうと、どのようなビジネスでも成り立たない。

家電メーカーが「どうだ、これは世界最小の液晶だ」と作っていたところが、気がつくと、相手の興味はもう違う方向へ目を向けている。モノの微差でなく暮らしに合わせて…と。相手のことを考えないと関心事からはずれるし、コミュニケーションも成り立たないし、モノも動かない。

変える部分と変えてはいけない本質的な部分を、常に見続けていくというのが大事なことです。よく「伝統と革新」と言われますが、ここを外すと自分の生き様のようなものがなくなるといった部分に関しては変えてはいけません。背骨がない企業はそれをころころ変えてしまって、時代に合わせて右往左往して、価格競争でお互いに体力を消耗してしまう。

例えば虎屋は500年近い歴史を持っている中で、変わる部分と変わらない部分というのがあります。和菓子というものを通して「日本の文化、食材あるいは日本の四季などを伝えていきたい」というベースがあって、その上で時代と共に季節の対応の仕方や、日本人の好みの変化も見ていく。その両方を見ることが、考える時の基本的な姿勢だと思っています。

想いがあるか。提案があるか。

高橋宣行氏: 出版は、世の中の流れを後追いしているような気がしてるんです。出版社自体に「世の中がこうなってほしい」「人をこういう風にしてみたい」というメッセージのようなものがないと、存在感が消えかかってくるんじゃないかと思います。あれだけの歴史を持っている本に関わる人たちが「誰かが当たったから」、「受けそうだから」という理由で本を出しているのを見ると「もういい加減にしてよ」と思います。

ちょっと言葉はくさかったけど「ジャーナリストとして、世の中をこう変えたい」とか、「あなたたちと一緒にこう変えていきたい」など、昔はそういう想いが出版社にもあったんだろうと思っています。熱い「想い」が。名物の編集者や、出版社の社長など、そういう人たちはだんだん消えていっているのかもしれません。

――ご自身の本にはどのようなこだわりがありますか?

高橋宣行氏: 絵と文字と言葉の使い方など、「口当たりがよく、コクがある」を目ざして、人の気持ちの中に入り込めるように作りたいと思っています。最初の本の『オリジナルシンキング』は、半年ぐらいかかってデザインを試行錯誤して、デザイナーの方も「新しい本を作りたい」とのってくれましたし、僕も「ただの文章は書かない」「言葉にイメージを持たせた」と、短い中に「気付き」になる言葉をちりばめました。

執筆に関しては、メインテーマはずっと変わらず「考える基本姿勢を手渡したい」ということです。それを、みんなが共感できるように、アングルを変えながら書けるだけ書いてみたいなと思います。あともう1つは、地方の企業に注目していて、「考えるヒント」を与えると、もっと動くところがたくさんあると思っています。その動かす手助けができればと思い、島おこしをしたり、地方でセミナーをやったり、企業のブランディングをやったりしています。

次は秋田での活動を考えているところです。「創造とは破壊だ」といわれ、基本的にはある意味、変化させないといけない。今までの習慣や古い概念のようなものを壊していかないと新しくならないわけですから、「壊す勇気」をより多くの人たちに伝えていけたら、と思っています。