・「やはり世の中は、そんな簡単に割り切れるものじゃない。もっと深いところに何かがある」と考え、“心”に、直接関わる精神科の仕事に興味が出てきた
・自分の辛さをわかってくれたり、自分のことを心配してくれている人の言葉が何よりの薬
・心の土台は自己肯定感
昭和34年、大阪府生まれ。京都大学医学部卒業。 国立京都病院内科、名古屋大学医学部付属病院精神科、愛知県立城山病院をへて、真生会富山病院心療内科部長。専門は精神病理学、児童思春期精神医療。 また、児童相談所嘱託医、スクールカウンセラー、NPO法人子どもの権利支援センターぱれっと理事長も務め、著書『子育てハッピーアドバイス』(1万年堂出版)シリーズは累計450万部を超える大ベストセラーとなっている。 そのほかの著書に『見逃さないで! 子どもの心のSOS 思春期に がんばってる子』(1万年堂出版)、『Dr.明橋の 生きるのが楽になる たったひとつの言葉』(主婦と生活社)など。
明橋大二オフィシャルサイトhttp://www.akehashi.com/
人を幸せにする仕事
――こちらの富山病院は、温泉や図書館もあって、とてもユニークですね。
明橋大二氏: さまざまな取り組みをしている総合病院です。笑顔あふれる病院を目指していることもあって、私はここで、子どもの笑顔の源を守る役割を担っています。もともとは、うつ病や神経症など精神の領域から、子どもだけでなくすべての年代に関わってきました。
私が名古屋大学で研修医としてスタートをきった当時、精神科医の関心の的になっていたのが、境界性人格障害、ボーダーラインと言われる人たちでした。心の辛さは、リストカットや大量服薬、暴力行為などの行動に出てきてしまいます。そういう辛さを抱えた患者さんと毎日向き合っていると、「実は子ども時代に虐待を受けていた」とか「10年間、いじめられ続けていた」というような事実が判明していきました。 「もしそういうことが子ども時代になければ、大人になってから、こんなに辛い病気にならなくてもすんだのではないか」と考え、精神科における予防という側面から子ども、あるいは乳幼児からのメンタルヘルスに携わるようになりました。もう21年になりますね。
――児童相談所嘱託医もされています。
明橋大二氏: おもに、子どもを虐待してしまう親のカウンセリングをしています。小学校で暴れる子どもたちや、自暴自棄になった心の原因は、やはり親に辿ることが出来るからです。
こういった子どもたちの症状は、私が名古屋時代に出会った20歳前後の人たちとまったく同じです。ひとつだけ違うのは、治療にかかる期間です。20歳を過ぎると、一生懸命、治療に関わっても治るのは5年~10年がかりですが、小学生の時に、きちんと親も巻き込んで関わっていくと、比較的傷を受けた期間が少ないので、短期間で見違えるような変化が見受けられます。早いうちに心の問題のサインに気づいて、できるだけ早く手当を開始することが大事なのです。
――医学で人を助けようと思われたのは。
明橋大二氏: 大阪市の公務員であった父は、医学部卒ではなかったものの、食中毒の研究などをしていて、医学の博士号をとった人間でした。私たち子どもには、誰か一人でも医者になってほしいという期待を、時々漏らしていました。
私が小学生のころは、四日市ぜんそくや水俣病など公害が社会問題になっていまして、子ども心に「科学の進歩が人間を不幸にしている」と感じ、自分が一生懸命何かを研究・発明をしたとしても、それが人間を不幸にするようなことになったら……と考え始めました。「人間を不幸にしない仕事」を自分なりに考えた結果、人の命を救う仕事であれば、不幸にすることはないと思い立ち、中学生になる頃は医学部に進むことが目標になっていました。 また一方で、音楽に親しんでもいました。もともと音楽好きだった母親は、コーラスを熱心にやっていて、家でもいつも歌を歌っていました。その母の意向もあって、子どもはみんな、ピアノを習っていました。家には、アップライトの小さなピアノがあり、中学生までやっていました。高校時代はパンクロック全盛期で、ご多分に漏れず私もハマりました。音楽雑誌、ロック雑誌も盛んな時代で、『MUSIC LIFE』や『NEW MUSIC MAGAZINE』などが有名でした。地元大阪では『ロックマガジン』が、当時最先端の音楽を取り上げており、そういった雑誌を熱心に読んでいました。
音楽雑誌の仕事に没頭し、勘当を言い渡される
明橋大二氏: 京大の医学部に進んだ頃はまだ、臨床医というよりは研究に携わろうと思っていました。DNAが解明され始めた頃で、研究を進めれば命のからくりや、その意味がわかるのではないかと思っていたのです。ところが、大学の講義には面白さを見いだせず、教室から足が遠のいていました。そんな時に、高校生の頃愛読していた『ロックマガジン』のスタッフ募集をたまたま目にし、編集部に飛び込みました。
最初はイベントの手伝いのつもりで入ったのですが「お前は英語ができるから、この詩を訳してくれ」と言われ、そこからいつの間にかインタビューや編集業務全般など、どんどん仕事が増えていき、編集部のある大阪ミナミにほとんど泊まり込みで、京都に帰れない日がだんだん増えてきてしまいました。 「勉強していないどころか、京都にもいない。ミナミでなにやらけしからんことをしとる。」学校に行っていないことが父親の知る所となり、激怒されます。しかも私がやっていたのはロック雑誌。親の世代からするとロック=不良という図式が簡単に成り立ってしまいます。「下宿を引き払って、いますぐ家に戻ってこい!それができなければ仕送りも止めるし、勘当だ!」と大目玉を食らいます。
父としては、そこまで言ったら諦めて戻ってくるだろうと思っていたのかもしれませんが、編集室に泊まり込み、収入も家庭教師でなんとかなっていた私も勢いで「じゃあもう家を出ます」と言ってしまいました。最終的には、双方妥協点を見いだし、父からはやりたいことを認めてもらい、私は少なくとも週1回は家に帰るという約束をすることになりました。
この時は「ついに頑固な親父に勝ったぞ!」と心のなかでガッツポーズをしていましたが、30年が経ち、自分も子どもを持つようになった今は、それを認めてくれた父の偉さがわかるようになりました(笑)。 医者になると期待していた息子が、ロックにハマって、ロクに学校にも行かず、ミナミに入り浸る日々を過ごすことになろうとは……、けれども息子のやりたいことを敢えて認めてくれたことで、私もその世界にある誘惑に惑わされず、道を踏み外さずに来られたのかなと思います。「京都に戻れない」という生活はその後2、3年続きましたが、5回生からは実習も始まったので、それからは雑誌の仕事から離れて、大学に戻ることにしました。
“心”に直接、関わり合いたい
明橋大二氏: 5年生になり大学に戻った頃、高校時代から一番仲の良かった友人が、精神的な病気で入院してしまいました。その後、回復しましたが、当時の私にとっては身近な人間の出来事に、衝撃を覚えました。それが、精神科に進むきっかけになりました。また、音楽雑誌の仕事で知り合った世界には変わった人も多く、そこで考えたことも大きな動機でしたね。そういう世界と接する中で「やはり世の中は、そんな簡単に割り切れるものじゃない。もっと深いところに何かがある」と考え、“心”に、直接関わる精神科の仕事に興味が出てきたのです。
父親も進路について色々と心配してくれていたのか、ある時、九州大学の池見酉次郎先生の『心療内科』(中央公論社)という本を教えてくれました。今はポピュラーになりましたが、“心療内科”という言葉は、当時珍しいものでした。その本には、ストレスによって体の異常がおきたりとか、カウンセリングで心を癒やすことによって体の症状が治っていく、という実例が記されており、ぜひ自分も実践したいと思いました。その後、2年間、国立京都病院で内科の研修をして、精神科に入り、今に至ります。
お母さんへの応援メッセージ
――現場からの声を発信されています。
明橋大二氏: 精神科で、医師として自分が目の当たりにしてきたこと、そこで感じたことなどを講演で話すようになりました。その講演録を、たまたま1万年堂出版に就職していた私の同級生に読んでもらったことが、本を書いて伝えることへとつながっていきました。
医者の世界では当たり前だと思っていた自己評価や自己肯定感という話が、世の中に役に立つことを知り、ぜひ本にまとめましょうということで出来たのが『みんな輝ける子に』(1万年堂出版)でした。
多くの方に読んで頂き、版を重ねたことで求めている人々の存在を感じることとなり、それから本で様々なメッセージを書かせて頂いています。専門家の書いた分厚い辞書のようなものは、忙しいお母さんには届きません。私がメッセージを届けたいお母さんに向けて、家事や育児で忙しい中でも、わかりやすく読めるものを心がけています。
――『子育てハッピーアドバイス』シリーズも、漫画付きですね。
明橋大二氏: それまでの『輝ける子』『思春期にがんばってる子』『翼ひろげる子』『この子はこの子でいいんだ。私は私でいいんだ』の4冊は、文字中心の体裁でしたが、宣伝のためのパンフレットを作ろうという話になった時に、今までの本の内容をマンガにできないかということで、1万年堂出版の社員である太田知子さんが描いてくださったのです。
マンガにすると、発売二週間で書店から本がなくなってしまいました。限られた層を対象にした育児書がベストセラーになるのは珍しいことで、毎日、読者カードが数百枚寄せられて、マンガという媒体の反響のスゴさに驚きました。
不安を抱えつつ、「これでいいのかな?」と思いながら子育てしているお母さんも多いと思います。まわりから「お前の育て方が…」と言われると、ますます不安になってしまいます。私は、常に「心の土台は自己肯定感だ」と言っています。それは親にとっても同じなんです。懸命に子育てをしている親御さんを認め、サポートする姿勢が大切だと感じ、その気持ちを本に込めました。育児書にマンガを取り込んだことで、思わぬ副産物もありました。
――何が起こったのでしょう。
明橋大二氏: 育児書を子どもが読み始めたのです。「お母さんの苦労がわかりました」という愛読者カードが8歳の女子から送られてきたこともありました(笑)。素晴らしいことですよね。
子どもは子育ての当事者なんです。当事者の意見はとても大切で、子育てに関しても、当事者である子どもの存在抜きでは出来ません。今までは、当事者でありながら、自分が本来どういう風に育てられるべきかということが、子どもにはわかりませんでした。それがこの本によって知り、意見を言えるようになったのです。「子どもとのコミュニケーションのきっかけになりました」という感想もあります。思春期の子になると、親に読んでほしい箇所に付箋を付けて、テーブルに置いていたりもするそうですよ(笑)。
自己肯定感を持って、互いに支え合える世界を
――自己肯定の大切さを伝えられています。
明橋大二氏: 人は、他人から必要とされるということほど、支えになるものはありません。これは子どもだけではなく、大人にも同じことが言えます。自殺や “暴走老人”の問題も根底には「誰も自分を必要としてくれない」という思いがあります。そういった思いを持たないために、自己肯定感が必要なのです。お金があっても寂しい思いをしている人もいますし、逆にお金がなくても、すごく豊かな生き方をしている人もいます。たとえ学歴がなくても、人とのつながりの中で支え合って、幸せに生きている人はたくさんいます。『五体不満足』()という本を書いた乙武さんも、自己肯定感を口にしています。大切なのは、今の状況を肯定的に捉え、認めることです。
――それでも心が折れそうになったりした時は。
明橋大二氏: それを保つのも、やっぱり人とのつながりだと私は思います。有名な精神科医の斎藤環さんは「人薬(ひとぐすり)」と言われています。 “生きる意欲”を支えていくものは、「あなたのことが大切だよ」とか「あなたがいないと困るよ」というような温かい言葉なのです。自分の辛さをわかってくれたり、自分のことを心配してくれている人の言葉が何よりの薬だし、それによって立ち直っていくこともできます。
精神科の薬は医者でないと処方できませんが、人薬は、どんな人でも処方できます。親から子どもへ、それから同僚同士で声をかけ合うこともできるし、お年寄りに対してもかけることができます。お互いに「あなたが大切だよ」と言い合えるようになれば、もっと生きやすい世の中になっていくと信じています。多くの感想が寄せられますが、これからも心の支えになれる本を書き続けたい、届けたいと思います。 今取り組んでいるのは、「輝ける子」の原稿をもとにして、その後書いたQ&Aなどを加えた本です。「輝ける子」を世に問うて、13年たちますが、子どもたちをめぐる状況は、まったく変わっていないどころか、さらに悪化しているのではないかとさえ思います。 主に小学生の子どもに関わる親や先生、地域の人に読んでもらいたいと思っています。