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建築家と建てた「一万冊が納まる書庫の家」(松原隆一郎氏/東大大学院総合文化研究科教授)インタビュー

わずか28.7平方メートルに建てられた書庫(が大半を占める家)。家主は、東大教授である松原隆一郎さん。電子書籍も普及する中、数ある本の保存方法の中から、あえて「紙の本を持ち、収納する」ことを決意したのには、他の愛書家とは違う事情からでした。今回は先生の研究室と、新しく完成した書庫にお邪魔して、建築家の堀部安嗣氏との共著『書庫を建てる―1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト―』のお話を交えながら、書庫が出来上がるまでのエピソードを、本にまつわる想いとともに「ほんとのはなし」を伺ってきました。

こんな話をしています……

本は愛でるものではなく、使うもの

頭の中が入れ替わり続ける自分と一緒に、家も年を経ていく

(祖父に対して)今でもすごい人だなという憧れがあります

松原隆一郎(まつばら・りゅういちろう)氏プロフィール
1956年、兵庫県生まれ。東京大学工学部都市工学科卒業、同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専攻は社会経済学、相関社会科学。自由論の思想史を近代の経済社会の変容とのかかわりから分析している。 近著に『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(共著。新潮社)、『武道は教育でありうるか』(イースト新書)、『ケインズとハイエク―貨幣と市場への問い』(講談社現代新書)、『日本経済論 「国際競争力」という幻想』(NHK出版新書)、『金融危機はなぜ起きたか? 経済思想史からの眺望』(新書館)など。

本の分類は、頭の中と同じ

――(書庫を拝見して)本棚が螺旋状に連なった、不思議な空間ですね。

松原隆一郎氏: 本は送られてくるものも含めて、おそらく月に40~50冊ぐらいずつ増えています。自宅の近くに築60年くらいのボロボロの家を借りていたのですが、それでも本が溢れてしまい、本のためだけの家を建てることにしたのです。

今回のプロジェクトに関して、本を読まれていない方には「贅沢でいいな」と言われますが、自分にとっては大変な決断でもありました。祖父の仏壇を倉庫に入れておくのが本当に申し訳なかったので、「1日でも早く出してやりたい」という思いも、この書庫作りの背景にあったのです。

蔵書家の人であれば、自分の一番好きな本などを置くのかもしれませんが、僕は本は愛でるものではなく、使うものだと思っています。だから当面は本の分類を変えながらやっていくと思います。「今、このことに関して書いているから、これの20冊」という感じに、棚の枠ごとに全て背表紙が見えるようにして入れてあります。テーマが変わると分類自体も変わってきますし、中身をどんどん入れ替えるようにしています。

本屋のように、経済、政治といった大分類ではなくて、例えば「ミツバチ」ならば、ミツバチの生態の本から、クマのプーさんまで、文系も理科系も関係なく全部入っているといった、非常に個人的な分類なのです。

アパートにあった本の3分の1ぐらいを研究室に持ってきて、研究室からは書庫へ持っていきたいものを運んで今は、研究室の本の整理がほぼ完了に近づいています。


僕と家内と堀部君だからこそ、できたもの

――建築、設計を担当された堀部安嗣さんとは以前からお付き合いがあったんですよね。

松原隆一郎氏: 堀部君がまだ卒業して数年で全く仕事がなかった時期に、家内が作品を見つけてきました。家内がいなかったら、堀部君に自宅を作ってもらうことにはならなかったでしょうね。そして今回の書庫は、自宅の改修、家内のカフェのリノベーションに続いて4度目の注文です。

恐らく施主が僕でなかったら堀部君もああいう建築物は作れなかったとも思っています。「どちらが欠けてもできなかった」という意味では、編集者とライターみたいな関係だったので、出会えて良かったなと思っています。

――どのようなやりとりからスタートしたのでしょうか。

松原隆一郎氏: いちばん最初に堀部君が出してきた案は、正直、私でも思いつくものでした。でもふた月ほどして、堀部くんがものすごく興奮して「大変なものができたから、見てくれ」と言って模型を持ってきたのです。でも模型では実際の建築物は想像できませんでした。

蟻の巣穴のようになっていて、中に立って螺旋階段をグルグル回ったりして初めて全体の感覚が分かってくるような、中に入らないと分からないタイプの建築物なのです。完成してからも、こうして本を探しているとき、自分がどこの位置にいるか未だに分からないので、本当に不思議な家だと思います(笑)。

――螺旋状の、不思議な本棚です。

松原隆一郎氏: 「角で切らない方がいい。そのためには丸がいいんじゃないか」という堀部君の理屈から出来たものでした。丸にすると本に切れ目がなくなるから、テーマがずっとつながっていくのです。彼が僕のことをよく理解して、やってくれたのだと思います。

そういうものを生み出してもらえるような課題を設定して、その設定の仕方に無茶さえなければ、相手は応えてくれると思うのです。

僕は自分の実家を売った経緯にこだわりがあり、彼はそれとは別次元で全く新しいものを作ってくれたわけですが、僕の中では最初から最後まで不思議なぐらい論理的にもつながっているのです。

当初は、土地は8坪しかないし、変形の四角形だから彼も最初はどうにもうまく行かず唖然としていたようです。それでもずーっと線をひいていると、ふとベストな丸が書けたそうなのです。そのベストの丸を24で割ったら、15度になる。そうやってある幅が決まったのです。

この幅を倍にするとドアの幅になり、シャワー室の幅も、仏壇の幅も全部この幅が基本となっています。信じがたいのですが、この幅は、どうも、コルビジェが発見した黄金比率と同じ長さらしい。 彼自身は気づいていなかったのですが、インドから帰ってきた建築家の方が書庫の内覧会にいらっしゃった時に、階段の幅を見て「コルビジェと同じじゃん」と言ったので驚いた(笑)。

コルビジェの発見した黄金比率というのは「この幅で作ると、人間の体に対して色々なものが上手くおさまる」ということのようです。 今は週に1度、欠かさず掃除をしてくれる人を見つけたので、書庫はいつでもベストな状態です。頭の中が入れ替わり続ける自分と一緒に、家も年を経ていくのだと思います。僕が死んだら息子が継ぐかもしれないし、ずっときれいに使えればいいなと思っています。

――過程をまとめられた「書庫を建てる〜」では序文を、松家仁之さんが書かれていますね。

松原隆一郎氏: 実は、新潮の著名な編集者であるということ以外は、どういう方か最初は知りませんでした。工事をやっている間の9月に、松家さんの処女作、『火山のふもとで』が出ていますが、その話は驚いたことに図書館のコンペの話で、モデルは吉村順三と言われていて、エーリック・グンナール・アスプルンドという人の手掛けたストックホルム市立図書館をヒントに作品案を完成させるのです。

一方、堀部君はそれこそ住宅建設界で吉村順三を継ぐ人だと僕は思っていましたし、その堀部君が今回、やはりアスプルンドの図書館にヒントを得て書庫の設計をした。 全くの偶然だけど、吉村・堀部・松家の3人がアスプルンドを介して同じ話に向かっている、といった感じで、そのつながりが見えた時は本当に不思議でした。

しかも堀部君は直前に高知で納骨堂を作っていて、そこに収める骨壺は陶器のギャラリー・カフェを経営している家内が仲介して収めました。その納骨堂は蟻の巣のような構造で、今回はアスプルンド×納骨堂でうちができたわけです。

このように全員が関係がないけど関係があるというように、ずっとつながってきていたのです。 そうした想いの結晶が、こうして家になって、ちゃんと仏壇も設置できたので、本当に良かったなと思っています。僕はもともと景観とか、そういう全体の調和といったものに関心があったわけですが、それを口で言っているだけではなくて、自分で何千万かのお金を費やしてまで実現したという意味では、言動一致したかなと思っています(笑)。

――出来上がっていく過程を書かれた文章は小説のようでもありました。

松原隆一郎氏: たしかに、リアルな話なのに「小説みたいだ」と言う人もいますね。書庫を建てるということで書き始めたのに、第一回は、堀部君にいいものを作らせるプレッシャーを与えるために(笑)、延々と一族の物語を書きました。彼は「もう作れなくなると思って、読まなかった」と言っていましたが、緊迫関係がないと面白くないじゃないですか(笑)。その結果、彼は一番いいものを作ってくれました。

――家族のエピソードには迫るものがありました。

松原隆一郎氏: 出版後に外交資料館で祖父の名前を見つけ出し、大正6年の3月19日、祖父が19才の頃に長崎から移民でフィリピンのダバオへ行った、というのが判明しました。当人は1年で帰ってきたと言っていて、28ぐらいで会社を作っています。その間、何故か神戸に流れ着いている。その場所も探しましたが、当時は本当に小さな家に住んでいた。それが成り上がって、1000坪の家と250人を雇う会社を持つに至ります。

ところが財産は戦争で全部なくなって、55くらいの時にまた会社を作る。希望をなくさないで、ゼロから始める。壊れては作り、また壊れては作っていくという感じが、我が祖父ながら僕は好きですね。最期、祖父はすごく満足そうに死んでいきましたし、今でもすごい人だなという憧れがあります

――御祖父の影響が強かったんですね。

松原隆一郎氏: 僕の父は全てをコントロールしたがる人で、しかし本に興味がないので僕が本を読むのは嫌だったようでした。万博のソ連館で、マルクスの本を買ってきたら、激怒して「けしからん。買い上げる!」と買い取られました(笑)。

父は全く本を読まない人だったので、家には本がほとんどありませんでした。幼稚園に入って、友達になった女の子たちが読んでいた本の話を聞いて、「ホンというのは、よく分からないけどすごいもんなんだな」と衝撃を受けました。八百屋の山崎君のところに行っては、片っ端から本を読んでいましたね。「うちの子に買った全集なのに松原君しか熱心に読まない」とおばさんに笑われたのを覚えています(笑)。

小学校の1、2年の時は小児結核を患い、甲南病院へ3年ぐらい通って、週に1回、採血をされました。その後、猩紅熱(しょうこうねつ)という法定伝染病に罹り、3ヶ月ぐらい自宅の離れにいましたので、かなり長いこと友達がいませんでした。その間はできることと言えば漫画を読むことぐらいです。昔は月刊誌ぐらいしかありませんでしたし、漫画に関しては母も厳しかったので、それほど読んだわけでもありませんけどね。

“知”を、つなぎ合わせて本にする

――時は進み、大学では都市工学を学ばれています。

松原隆一郎氏: 街を歩くのが好きだったこともあって、大学3、4年生の時は都市工学科に進学しました。本郷から駒込に帰るのに、谷中や根津などを通っていたのですが、あの頃は東京がめまぐるしく変化していた時期で、森まゆみさんが“この景観を残そう”という運動を、ちょうど始めた時期でもありました。

みるみる街が壊れていくのを見ていると、自分の体が壊れていくような嫌な感じになるんですね。僕の偏見かもしれませんが、当時の都市工学は、クライアントからお金をもらって言われた通りに街を作り変えているという感じがしました。でも僕は、むしろ街の中に残り続けているものに関心があったし、それを探すために街歩きをしていたのです。

月島に行くのも好きで、長屋のような建物の前の路地に、たくさんの植木を置いていました。今ではほとんど見かけなくなりましたが、公と私の間の空間にこそ下町の歴史があったのです。

そうした景観が崩壊するのを見るに見かねて、都市の景観が失われていく様子についての本を書きました。「日本の街が壊れたのは、経済が主な理由だ」と感じていたので、経済学者がそういう本を書かなければと思ったんです。

編集者は触媒。想いを社会に届けてくれる存在

――先ほど建築家との関係性を「書き手と編集者のようなもの」と例えられました。

松原隆一郎氏: 私は自分が体で感じている感覚を言葉にするために、本を書いているのですが、それを社会とつなぎあわせる触媒の役割を編集者は担っていると思います。ですから、僕が頼まれて書いた原稿に対して、なにもコメントをつけない編集者だと困ります。

立派なコメントが欲しいとか、褒めてほしいということではなくて、何か言われたらそれからの連想で草稿をブラッシュアップさせる。意にそぐわないことを言われたら喧嘩になることもありますが、それはそれでいい、と僕は思う。

そういう風にコミュニケートしながら本を作っていくので、建築家と家を建てたように共同作業だと思っています。 一人でも十分なものを作れるという優秀な方も中にはおられると思いますが、「編集者を介したら、もっとタイトでいい文章になるはずなのに」と思うものもたくさんあります。

自由に書いた文章は、人の言葉に対して反射していないから、他人が読んでも、あまり面白くないのかもしれませんね。編集者の言うことを全部聞けと言っているわけでもありませんし、拒絶してもいいのですが、その拒絶するというプロセスが1つ入るだけでも、全然違うものになるはずです。

文末が3種類ABC、ABCというように、必ずある順番で出てくる人もいますが、それだとリズム感が文章には生まれませんよね。やっぱり文末や文脈は重要だと僕は思います。読者は旬のある情報にお金を払って読んでいるわけですから、書く時にはマーケットで売れる文章……僕の場合は、読者、相手方をしっかりと意識して書くようにしています。

『書庫を建てる―1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト―』の元となったWEB上の阿佐ヶ谷書庫プロジェクトの時の文章は、家族との葛藤の話など、もっと赤裸々に書いていましたが、それはあえて親族に読ませようと思ったのです。

読んだ人には「あれはあれで面白かった」と言う人もいて、分からないなとも思いました。みんなが抱えている悩みなのかもしれませんね。ただ、親族の何人かには「こんな恥ずかしいことを書いて!あんたとは縁を切る!」と言われそうです(笑)。

大転換期を迎えた日本。公共事業の概念を見直すべき時

――松原先生が、今書きたいテーマ、感じていることは何でしょうか。

松原隆一郎氏: 次に書こうとしているものは、今の日本経済の特徴についてです。これほど長い間不況が続き、マーケットが上手くいかない理由は、世の中全体にあるのだと僕は思うのです。そういうことについて包括的に説明するのが、自分の使命かなと思っています。

日本の経済社会全体が大きな転換期にあります。例えば高速道路を作ったとすると、それには定期的なメンテナンスが必要なわけですよね。維持するのが無理だと分かったら計画の段階で作るのをやめるなど、今後は、“長年維持することができるかどうか”を考えながら、やっていかなければなりません。

その上で、“本当に必要なものは何か”ということを考えます。 国立競技場などを何千億もかけて作るとしても、赤字が出た時は税金を垂れ流しにすることになると言ったら、みんなも反対するかもしれませんよね。天災や事故などといった予想不可能な部分もありますが、その場合にも誰かが何らかの形で責任をとらなければいけない。その仕組みを、作るべき時期に日本はきているのです。

東北地方に関しても、復興する時には人口が減っているわけだから前にあったような大きなものはできない。コンパクトにして、ある程度は駅前などに人が集まるようになると思います。そのように社会が変わっていかざるをえない。その転換期が理解されていないから景気も良くならない、というようなことも書こうと思っています。

――公共の概念そのものを見直す時期にきている。

松原隆一郎氏: 公共事業は箱物というイメージだったけれど、これからはソフトと合体しなくてはいけません。国土強靱化計画というものがありますが、特に高知市は全水没の危機感もあり、尾崎知事は本気でなんとかしようとしています。堤防があるからといって逃げ遅れるぐらいだったら、全員で走って逃げようということで、1人でも死ぬ人を減らすためにトンネルを掘ったりしている。

岩手では、走って逃げた人たちが一番助かっているという事例があるので、そのノウハウを受け継いで、どうやって逃げるかということを考えているのです。 必要な物は作るけれど、それプラス、ソフトをそこに合わせていくということ。

今回、一番面白いなと思ったのは、潜水艦のような穴をあらかじめ掘っておくというものでした。室戸は年寄りが多いのですが、裏山が崩れやすく、おそらく震災の時に裏山に逃げることはできない。それでも、みんながそこに住みたいと言っているので、潜水艦のようにデッキをあけて、その中にみんなが逃げて、パタッとフタを閉めるという作戦なのです。

1つ作るのに1億円。もし10メートル以上の堤防を作ったら、何倍もの費用が掛かります。他の工法に比べると安上がりで、かつ「モデルケースだから」ということで、国もお金を出しています。

――トンネル作戦。斬新ですね。

松原隆一郎氏: 話を進めていく中で「トンネルの中はやっぱり怖いだろう」という問題が出てきました。それならばカラオケ機のDAMなどの会社にお願いして、少し安めにトンネルの中にカラオケを設置してもらったり、日曜日などは、そこでマーケットを開催すればどうか。公の場所として日頃から入っておけば、怖くないのではないかと思うのです。

そのように、建築物などのハードなものとソフトなもの、公的なものと私的なものが合体して公を支えていくという感じになっていくのだと思います。

――色んな方が、それぞれの役割で参加していくんですね。

松原隆一郎氏: NPOなどのように、中間でやろうという人たちも全部含めて、震災といったものに対抗していくことになると思います。そうやって新しい日本になっていくのではないでしょうか。神戸の復興は、元に戻るタイプの復興。

でも、これからは減るタイプの社会になっていくので、「何を遺していくのか」ということまで説明できるような構築じゃないといけないのです。今がまさに大転換期。形を変えてでも継続して遺していく、といったことが、新しい日本を作るのだと僕は思っています。