見田宗介さん(社会学者、東大名誉教授)「想像力の振り幅を広げる」インタビュー

「恐怖の肯定男」は社会をどう見たか

見田宗介氏: ずっと後になって、団塊の世代の人たちが学生だったころ、1970年ごろに大学闘争がありました。その時に僕は糾弾される方の教授会にいたんですけど、学生たちと激論を戦わせていく時に、その学生たちが冗談に色々といろんな人のあだ名を付けるわけです。僕に対してどういうあだ名が付いたかというと、「恐怖の肯定男」。つまり何でも肯定しちゃう。

あのころ学生の中にいろんなセクトがありましたよね、「何々派」だとか「何派」とか。で「お前はどうなんだ」という討論があるわけです。そうすると僕は、あの派がこういうのもわかる、それから教授会がこういうのもわかると、だいたい全部肯定しちゃうんです。それで「お前は恐怖の肯定男だ」と言われた。でもそれが僕の立場なんです。つまりその立場になって一生懸命考えるんです。いろんな派の人はみんなまじめに考えているわけ。糾弾される教授会は教授会でやっぱりちゃんと考えていて、ちゃんと秩序を守らなければめちゃめちゃになるということでやっているわけです。だからそれぞれの立場に正当性があるわけで、そこを踏まえて理解しないで、糾弾するだけでは何も議論にならないだろうと思っていたんです。

――立場からの視点に左右されては本質に辿り着けない。

見田宗介氏: 僕が今でもよく言われるのが「お前は近代主義者なのか、反近代主義者なのか」ということなんですが、僕は近代も正しいと思うし、反近代も正しいと思うんですね。インドとかメキシコみたいな近代ではない文明もものすごく好きだし、もっと野性的な文明も好きだし、近代社会も好きだし現代社会も好きなんです。さっき言った若い諸君が想像力の振り幅を広げるということとかかわるのですが、色々なことをその立場に立って一度経験したり知ることが大事だと思いますね。「近代社会だけがいい」とか、「野性的な社会だけがいい」とか、「日本社会だけがいい」とか、「いやいや、インドが一番いい」とかではなくて、それぞれ一度は肯定した上で、どのように考えるかということがすごく大事だと思います。

例えば、丸山眞男という人がいるんですけれど、彼は一時神様みたいに尊敬されていて、その後全共闘に批判されて、吉本隆明なんかにも批判されて、それで今はもうほとんど読まれなくなった。僕もどっちかというと丸山さん的な近代思想、「西欧がいい」とか「近代がいい」というのには批判的な立場なんだけれど、でもやっぱり丸山眞男は読んでいると面白いんですよ。ちゃんとした思想家とか学者が書く本というのは、自分と立場が違っていても読みごたえがあるんですね。

自分と立場が同じ小物よりも、自分と違っても本物を読むとそれなりに得るものがある。もちろん最終的に丸山眞男を批判することはいいんだけど、とりあえず尊敬して読んでみると、初めてよくわかるわけです。わかってみた上で乗り越えるのは大いにいいと思うんですが、最初から「あいつはもう古い」とかいうふうに読むと、ずいぶん損をすると思うんです。いったんはほれ込まないと本というのはわからない。本に対する思いというのはそういうことだと思うんです。もちろん人間に対してもそうですね。中東問題もそうだし、日中関係もそうです。一度仮に認めた上でないと相手を理解できないんです。理解した上で批判するのが本当の批判だと思っています

電子と紙が共存共栄する「書籍の生態系」

ーー本の世界においても「活字vs電子」の二項対立が……。

見田宗介氏: 僕は、電子化は非常にいいと思うし、かつ、増えてくるべきだと思いますが、「活字か電子メディアか」という二項対立ではなくて、並行して共存共栄の形を取るということだと思うんです。
例えば、1950年代に「これからはテレビの時代だから、もう新聞や印刷メディアはいらないんじゃないか」という議論がありました。新聞界や出版界なんかで非常に心配した人もいるわけですが、テレビを見て、翌日の新聞でもっと深くバックを知るとか、結局今になってみると役割分担があるわけで、それぞれ特性があるので棲み分けになるわけですね。

もうひとつ言われていたことが、大相撲のテレビ中継が始まった時に非常に相撲界は心配して、「テレビで見ちゃったら誰も国技館に来なくなるんじゃないか」と心配したわけですけど、逆にテレビで放映されることによって、今まで相撲に関心を持っていなかった人も実物の相撲に関心を持って国技館にも来るということもありました。

そして今度はインターネットを含めて電子メディアに、逆にテレビ界が戦々恐々としている。でも地上波には地上波の役割があって、だから残っている。電子メディアは今よりもはるかにシェアを拡大すると思いますが、ではテレビメディアや印刷メディア、出版がゼロになるかというとそんなことはない。

書物には、物としての美しさがあるわけですよ。だから電子メディアで読んで、また書物でも読んでみたいとか、そういうことになると思うんですね。

ある森林なりの生態系の中に新しい生物が出てきて繁殖すると、ほかのものは駆逐されると思われるけれど、やがてエコロジカルな生態学的な均衡状態をもって整合するわけですね。だから大きく言うと活字メディアとテレビとか電波メディア、それからインターネットみたいな電子メディアのフィールドが確定されてきて、それで共存共栄していくんじゃないかというふうに思っています。

電子メディアで今ネックになっているのは著作権問題だと思うんです。それがきちんとされないから出版界でも心配したり、抵抗があったり、二項対立で考えたりする。ただ、音楽関係は今かなりきちっとなっていますよね。本に関しては、アメリカなんかでは動いていると思うんですけれども、日本でも、出版社も著者も納得できるルールができちゃえば、非常に楽しい共栄関係になるので、それを早く整理することが大事ですね。読者としてはそれだけ選択肢が増えるわけですからもちろんいいと思いますね。

――出版社の役割も変わっていくと。

見田宗介氏: 出版社にはふたつの面があります。ひとつはコンテンツを作るということ、もうひとつは現状では印刷メディアの特性に通じているということです。でも、コンテンツという点で言えばどちらでもいいわけです。現に主要な出版社はみんな電子メディアとか、インターネットに対応することに乗り出していますよね。それは当然のことです。つまり出版社にとって、印刷というメディア以上の生きがいはやっぱりコンテンツでしょう。文学でもいいし社会学でもいいし、あるいは歴史でもいいし、いいコンテンツを世の中に知らせるということが出版社の一番の生きがいというか使命ですから、それは必ずしも印刷にかけなくてもいいわけですね。

そのうえで二番目の印刷メディアということの特性も、既にある出版社ならそれだけノウハウもあるし、さっき言った棲み分けがなされれば需要はずっとあると思います。だから出版社にとっての生きがいであり使命であった良いコンテンツを知らせるという点では、印刷メディアのほかに新しいメディアができたというだけの話だと思いますね。インターネットでの有利・不利というのはあると思うんですけれども、それは一時的な問題で、要するに良いコンテンツが普及すればよいと思うんですね。

――電子メディアは、映像や音声など表現の幅も広がりますね。

見田宗介氏: 音声化することのプラスが僕は非常に大きいと思います。例えば早稲田でも子どもが授業を録音して家に帰って聞いたりしていますが、そうすると大学に行かなくてもよくなったりします(笑)。将来、それをさらに電子メディアで使えば、もっと今の若い子どもに役立つものになると思うんですね。ただ、小説なんかの散文だったら電子メディアで構わないけれども、現代詩みたいなものは、行分けの微妙なところをどう表現するかとか、音声化はちょっと難しいということはあると思います。

例えば読点は1秒空けるとか、句点は3秒空けるとか、改行とかは5秒空けるとか、「」(かぎかっこ)とか〈〉(やまがたかっこ)なんかでも、そういうルールが社会に定着してくれば、現代詩の分かち書きなんかでも自由に表現できると思います。そうすると今度は、詩人も微妙な表現で「、」と「。」の中間ぐらいだと2秒空けるとか、ここで言いきって10秒空けてほしいということもできる。世の中が慣れてくれば、そういった現代詩的な音声化に適さなそうな分野でも、逆にもっと自由になるとかいうこともあり得るわけだと思うんですね。短期的にはちょっとフリクショナルになるかもしれないですけれど、長期的には表現の可能性が広がるだけだと思っています。

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