ものづくりの喜びに魅せられて
500年続く伝統工芸「小田原漆器」を手がける、大川木工所の三代目、伝統工芸士の大川肇さん。小田原漆器の特徴である欅(ケヤキ)の木目の美しさを生かした大川さんの作品は、国内外で高く評価され、第61回全国植樹祭で来県された天皇・皇后両陛下のお食事を盛る器としても使われました。「納得のいく一級品を作り続ける」という大川さんの、作品づくりにかける想いを歩みとともに伺ってきました。
木地師の栄えた町 小田原
――大川木工所は、創業からもうすぐ90年に。
大川肇氏: 祖父が1926年に創業して、私で三代目になります。ここ小田原は漆器に限らず製材が盛んな場所で、今も「木地挽」という名が残っている地域もあるくらいです。大川木工所もそんな製材を生業とする工場でした。
「親父が二代目で、自宅が木工所」という環境でしたから、小さいころから丸太を斧や機械で切って小遣いを得たりしていました。そうやって家業を手伝う中で、自然と木には親しんでいきました。三代目として生まれた私なので、将来の“木工所の経営”は頭の片隅にあったものの、はっきりと継ぐ決意が出来たのは、大学を卒業して修行に入ってからでした。
体で覚えた“ものづくり”のさじ加減
大川肇氏: 修行するにあたり、祖父からは「三年のあいだは木地をやって、まずは自分で(木地を)挽けるようになれ」と言われました。はじめは、自分が使う道具から作りました。作業は刃物も使いますし、ろくろも高速で回転しているのでけっして安全とは言えません。刃物が引っ掛かって折れると品物も飛んできます。ケガをしないようにと必死で、仕事を覚えました。その期間は胃痛に悩まされましたよ(笑)。また「朝の一番から、素早く仕事が始められるように」と、仕事の後の機械の掃除も徹底されましたね。
私が師事した玉木一郎さんは小田原漆器の伝統工芸士第一号で祖父の一番弟子でもあり、家族同然の方でした。師匠は最初の時こそ手をとり足をとりで教えてくれましたが、ある日から「あとは、自分で盗んで覚えろ」と言われました。
仕事の様子をじっと観察していると、色々なことが見えてきます。作り手の身長が違えば、道具の持ち方も違います。そこから自分にあった加減を学んでいきました。こうした「さじ加減」は、やはり体で覚えるのが一番です。
こうして修行を積みながら、私の中で仕事の「苦しみ」よりも「面白さ」が勝ってくるようになったところで、ようやく家業を継ぐ決心がつき、師匠、祖父、親父、工場にいた多くの職人さんから技術や想いを受け継いで、それからずっと今もこうして、その「面白さ」を感じながら仕事をしています。
妥協のない一級品の作品づくり
――どんな時に、その「面白さ」を感じるのでしょう。
大川肇氏: 自分の思うようなものが、自然の状態から「形」になる時に「面白さ」を感じます。自然物から「形」を作ることの面白さは無限です。また、作ったあとには喜びを感じています。器を使ったお客様から「使いやすかったよ」とか「こういう木の温もりがいいね」などと言われると、職人冥利に尽きますね。
この世界に入って最初に言われたことは「作る数は重要ではない」ということでした。慣れてくると手を抜くわけではありませんが、ついつい一枚多く作りたくなります。そういった気持ちは、品物にも表れます。“丁寧に作って、自分のベストのもの、一級品のものを商品として出す”。これに尽きます。
一生勉強 一生職人
――作品にも色々な“顔”が見えてきます。
大川肇氏: 小田原漆器は、木地呂塗りによる木目の美しさを楽しめるのが特徴です。木目はそれぞれ違う表情をしています。こうした自然の木に対して、どう活かせるかを考えて作っています。年輪の方向を見て板の取り方を考えたり、木目の出方によって、お椀のふちの厚さも変えます。お椀の寸法は、昔から「手になじむ寸法」ということで、だいたい12センチ。女の人用の場合は、5ミリくらい違う3寸8分ぐらいと、使用目的や使う人によっても千差万別なんです。
小田原漆器には、碗だけでなく普段使い様の皿やお弁当箱など、値段も手ごろなものもありますので、まずは手にとっていただきたいですね。そしてできれば毎日使ってほしいと思っています。長く使ってほしいから、修繕も歓迎です。
私も、生涯現役を貫いた師と同じように、「一生勉強 一生職人」を目指します。伝統的なものも残しつつ、新しいものにも挑戦する。そうして出来上がった作品を通して、使う皆様との「出会い」を楽しみに、これからも励んで参りたいと思います。