「就職は3年間の社会勉強」現場で得た次へのヒント
中村氏: とはいえ、なかなかその「何か」は見つかりませんでした。大学3年生になり、まわりが就職活動一色になっても、どこかうわの空というか、自分の将来像に「会社に勤める姿」が浮かびませんでした。そこでようやく、「起業」が頭に浮かぶのですが、自分には社会で役立つアイディアも経験も何も持っていないことを知るわけです。
それで「まずは3年間、社会に出て勉強しよう」と会社に就職することにしました。商売を勉強するために考えた就職先は、商社かコンサルタント会社。なおかつ早いうちに責任のある仕事に就けて、全体を見渡せる規模の会社がいい。目標が定まってからは、その条件に絞って就職活動を始めました。
とはいえ、「勉強のための就職で、3年経ったら辞めます」と、そんな都合のいい要望を聞き入れてくれる会社はなかなかありませんでした。自分で「採用のメリット」を考えても確かに思い浮かばない(笑)。「一所懸命何でも働いて、給料以上の成果を御社にもたらします!」と言うしかなく、入社面接は、そうした「根拠のない自信」だけだった自分のプレゼンの場でしたね。
――そんな都合のいい就活生を採用してくれたのは……(笑)。
中村氏:「うちで勉強して3年後に起業してもいいよ」とお墨付きをくれた、太っ腹なコンサルティング会社でした。その会社は、さまざまな業種のコンサルティングに関わっていて、折しも介護保険制度が施行された頃で、民間の介護分野の参入が認められ、その会社も時流に乗って新しい介護事業に乗り出そうとしていました。
私の最初の仕事は、岐阜県のとある有料老人ホームの新規立ち上げと、入居者の募集営業でした。ところが、自治体と違って民間が運営する施設ということもあり、安くない入居金や月々の費用に、思うように入居者は集まりませんでした。
「どうしたらいいのか」。一応先輩社員から営業としての基礎的なノウハウは教わっていましたが、新しく始めた事業なので「前例」がなく、自分で体当たりしながら考えなければなりませんでした。手を替え品を替え、試行錯誤の中で、「解」を探していましたね。入居者が集まらなかった頃は、会社にお願いして施設に寝泊まりし、入居者と一緒に生活していました。その時に、現場を知るためにヘルパー2級の資格も取得したんです。
――現場経験を積んで、次に繋がる「何か」を掴んでいく。
中村氏:希望通り「何でも」やれる職場でした。現場にいなければわからないことがたくさん見えましたし、寝たきりの高齢者の多くが悩む「床ずれ」問題も知りました。この経験が、のちに起業する際の「介護用ベッドマット」の発想に結びついていくんです。
もしかしたら、その時の状況は端から見たら、相当きついものであったのかもしれません。けれど私としては、最初からすべてが勉強のつもり、事業を起こすための疑似体験という気持ちで、まったく苦ではありませんでした。
そうしてすべてを学びと捉えて仕事にどっぷり浸かっていました。結局、3年の予定で始めた「職業体験」は、急遽父の体調不良を受けて、家の仕事を手伝うため2年半で幕を閉じることになりました。
新たに課せられた二つの挑戦
中村氏:父の仕事を手伝うことに関して、私自身はあまり乗り気ではありませんでした。繊維問屋を事業としていたのですが、私が手伝うのは新たな挑戦ではなく、「会社の整理」という決して前向きな挑戦ではなかったからです。とはいえ、大学まで行かせてくれた親でしたから、断る訳にもいかずしぶしぶ実家に戻ったんです。
畑違いの父の事業で戸惑うことも多く、会社の人員整理と取引先への謝罪の日々が続き、白髪も一気に増えましたね(笑)。会社の立て直しを図ると同時に、新たに自らの会社ベネクスを立ち上げたのはこの頃のことです。
――同時に二つの挑戦を……。
中村氏:会社の整理だけでなく、前向きな何か次に繋がる新たな挑戦をしなければと思っていました。社名であるベネクスは、クリエイティブ(Creative)と ネクスト(Next)を組み合わせた言葉が由来ですが、文字通り、自分たちが次へ進むためのものだったんです。
ベネクスの初期メンバーは私を含めて3人。私以外の2人は、父の会社の社員で、父とよく揉めていた方でした。会社を思って、あえて父と対峙することも厭わない威勢が頼もしく感じられ、私から「新規ビジネスをやりましょう」と誘ったんです。
父の会社のほうはなんとか片付けたのですが、今度は自分たちベネクスの仕事の危機でした。新しく立ち上げた会社では営業先には相手にされないし、営業先がなければ仕事もない。仕事もなければ社員同士の会話も生まれず、口から出るのはネガティブなことばかり。しばらくは他社商品の販売代行で食いつなぐ有様でした。