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春風亭一之輔さん(落語家)「命までとられるわけじゃあるまいし」インタビュー

こんな話をしています…

  • (入門して15年)一度も辛いと思ったことはない
  • 中学生の頃はハガキ職人で、ラジオ業界に進みたいと思っていた
  • なんでもチャレンジするし、ダメなら別の道を考える
  • やりたいことがあれば「ハマって」どんどんやっていく。

「待ってました!」「たっぷり!」――客席から聞こえてくるかけ声に応え、観客を人情溢れる世界へすっと引き込んでくれる、落語家の春風亭一之輔さん。古典落語を中心に、座布団の上、右に左にの一人芝居で、いつの世も変わらない、人間の悲喜交々を魅せてくれます。入門から15年。「正直、辛いと思ったことは一度もない」と語る一之輔さん。真打ちへの「異例の昇進」とされる活躍の裏にあった、好きな道を進むための天性の「ハマり力」と「やわらかい軸」とは。落語に出会うまでの原点と節目を振り返りながら、一之輔流やわらかい道の極め方を伺ってきました。(アルファポリス掲載記事です)

インタビュー・文 沖中幸太郎

春風亭一之輔(しゅんぷうてい・いちのすけ)
落語家

1978年、千葉県野田市出身。埼玉県立春日部高校時代、浅草演芸ホールで「落語」に出会い、落語の道へ。日本大学芸術学部放送学科在学中は落語研究会に所属。同大卒業後、春風亭一朝の元に入門。前座から二ツ目、真打ちと異例の昇進で活躍。国内外、場所を問わず活動し、またテレビやラジオ出演、書籍の出版などさまざまなシーンで落語の魅力を発信し、裾野を広げている。公式サイトは【いちのすけえん】

身体にハマる落語家という生き方

――いろんなところで、一之輔さんの落語を聴くことができます

春風亭一之輔氏(以下、一之輔氏):「頼まれれば、どこへでも」……寄席はもとより、人さまの庭先から海外まで、いろいろな場所でお噺(はなし)させてもらっています。おかげさまで、今年も尻餅つかずに年の瀬を迎えられそうです。

ヨーロッパ公演は、お声をかけてもらって。全然自信がなかったんですけど、通訳さんと相談して、人類共通のテーマ「夫婦、親子、よっぱらい、ケチ」など、人間模様を描いた演目をやりました。

お宅での落語も、お声がけによるご縁から続いてきて、かれこれ10年ほどになりますか。幼稚園の年少だった小さなお客さんも、今では高校受験を控えるまで成長しました。

我々、噺家(はなしか)というのは言わば、「無駄」を生み出す存在で、社会が逼迫(ひっぱく)した時には「落語なんて聴いている場合じゃない!」と、真っ先にキャンセルされる存在です。

お噺に呼ばれるということは、それだけ世の中に余裕があるということでもあり、これは大変ありがたいことだと思っています。

そもそも、元来フワフワとした性格の自分が、座布団の上でお話をして生きていける、自分の身体にぴたりとハマる、どこかゆったりとした「落語」という世界に出会えたこと。そんな性格の自分を活かしてくれた、師匠・一朝の元に入門できたこと。そして「春風亭一之輔」の落語を楽しんでいただけるということ。これ自体、非常にありがたいことなんです。

ですから入門して15年、いろいろなことがありましたが、正直一度も辛いと思ったことはありません。

人気落語家の「気が小さすぎる」少年時代

一之輔氏:入門してからの15年間も、それ以前も、私は「血のにじむような努力」というのをしたことがなくて。

小さいころからずっと、マイペースに自分の好きなことを見つけ、勝手にハマりながら進んできました。

私には、年の離れた姉が3人いまして。一番上は一まわりくらい違っていて、それからだいぶ離れて自分。7年越しの男の子誕生とあって、家人からはチヤホヤ(されていたと聞いています)。

遊ぶ時は、だいたいお姉さんと一緒といった具合で、家の中で、「4人の母親」と親父に優しく育てられた甘えん坊でした。

今でこそ、黙っているだけでしかめっ面と言われる風貌になってしまいましたが、そもそもの私は非常に繊細と言いますか、昔っから気の小さい奴でした。

――人前でハナシをするような性格ではなかったと。

一之輔氏:なるべく目立ちたくないと、いつもビクビクしていました。それなのに、小学生になった初日、ピカピカの机と椅子を前に、先生から「大切に使いましょう」と言われた椅子をいきなり壊してしまった時は、相当なストレスでしたね。

「起立、礼、着席!」の号令の、最初の「起立!」の時に、ほつれていたズボンを椅子に引っかけて、ベリベリ!っと椅子の合板部分が剥がれてしまったんです。

慌てて何事もなかったかのように取り繕い、誰にも見つからないようにずっと隠し通しました。1年間(笑)。

掃除の時も、椅子の上の敷物がめくれてバレないようにそっと机の上に上げて……、この時は座布団に助けられました。

――繊細というか、気にしすぎというか……。

一之輔氏:今でもカミさんに言われていますよ、「細かい」って(笑)。そういう気が小さすぎる性格でしたが、小学4年生の時にはじめて人前でウケたことがありました。

げんこつは当たり前の、ものすごく怖い男の先生が担任だったんですが「クラス全員に1分間スピーチをやらせる」という、私にとっては地獄のような時間があったんです。

無理矢理しゃべらされた内容は他愛もないことで、オチは「オナラをしました」とか、ありきたりな話だったと思いますが、なぜか大ウケ。

その時はじめて人前でウケる快感と喜びのようなものを感じました。

――それで落語家を意識するようなことは……。

一之輔氏:事故みたいなもんでしたし、落語という存在も知らなかったので、それはありませんでした。ただその「事故」のおかげで、人前で話すことは、さほど苦にならなくなっていました。

そのころ、なりたかったのは学校の先生。日本の歴史や三国志に興味があったので、歴史を教える社会科の先生になろうと思っていました。

落語との最初の出会いは、その翌年。小学校高学年に始まる「クラブ活動」で「落語クラブ」を選んだことがきっかけでした。

ただこの時も、人が大勢いるところは嫌だったので、なるべく少人数のところ(サッカーは11人以上いるし、将棋は個人プレイで目立ってしまうから)という消去法で選んだものでした。なにか演目を覚えてやっていたんでしょうが、上下(かみしも)も気にせず、どこに向かってしゃべっていたのかも分からない、めちゃくちゃな「落語」でした。

ラジオにハマる スポーツにハマる
だけど「厳しいのはご勘弁」

一之輔氏:中学生になると、落語からはいったん離れ、代わりにハマったのが、当時、家で内職していた親が何気なく流していたラジオ。

テレビと違って、自分だけに話してくれているような感覚がラジオにはあって、そのうち自分だけで聴くようになって、どんどんハマっていきました。ハガキを送れば読んでくれるかもしれない近さが魅力だったんですね。

ネタを書いて一度ハガキを送って読んでもらったこともありますが、それに満足したので、それからは、もっぱら聴く専門。

月曜から土曜まで、録音して全部聞いていましたね。また録音だけでなく、やっぱり臨場感を感じるために生で聴きたくて、深夜放送を聴くために、学校から帰るとすぐに仮眠をとっていました。何か好きな番組を聴くというよりは、ラジオ全体の世界感が好きで、それで将来はラジオ業界、番組制作、放送作家になろうと思っていました。

――ハマりまくってますが、親からの口出しは?

一之輔氏:宿題をやりながら、朝もニュースを聴きながらだったので、親は「勉強でもしてんのかな」と勘違いしていたんじゃないでしょうかね。

「厳しいのは勘弁」という自分の性格を知ってのことだったのかわかりませんが、親からはまったく口を挟まれることはありませんでしたね。

そもそも一度も声を荒らげて怒られたことがなくて、そのためか自分も反抗期というのが、まったくなかったみたいです。

高校生になって、当時再放送されていたテレビ番組『スクールウォーズ』が好きで入っちゃったラグビー部でも、顧問の先生がおっかなくて、自分には向いていませんでした。

厳しいのはどうも性に合わないようで。やっぱり苦手なんです、怖い人は(笑)。

それでも、夏休みまでに半分以上の部員が辞める中、ベンチプレスを持ち上げたり、プロテインを飲んだりして翌年の春休みまで筋肉と仲良く、歯を食いしばっていました。

ただ、やっぱり気持ちはプレイに如実に表れるし、それで他の部員の足を引っ張るのが嫌になったんですね。顧問から「勝手にせい」と言われ、退部は成立したものの、部員のみんなが、家まで止めに来てくれました。

でもそこでもし、イヤイヤ続けていたら、今は噺家になっていなかったでしょうね。

ラグビーを続けることが悪いんじゃなくて、自分をごまかして嫌なこと、向いていないと思うことを無理にやり続けることが、自分にはよくない。

それよりも、自分が心のうちから楽しめるものを探して、とことん打ち込んだ方がいい。自分がやりたいように進むのが、楽だと。この時から取り繕うのをやめました。

そして芯さえしっかりしていれば、なんでもチャレンジするし、ダメなら別の道を考えるという「やわらかい軸」のようなものが、自分の中にできあがっていったんです。

身体に走った、寄席の“ゆるい”衝撃

一之輔氏:それでも、ラジオを聴く以外に特にやりたいことが見つからなくて、暇になった土日を持て余していました。

そんな日々を過ごしていたある日(土曜日だったと思いますが)、何気なく電車で一本の浅草に出てきたんです。何か面白いことはないかと。それで、ぶらぶらしていたら、浅草の演芸場の前に辿り着きました。

看板にはテレビで見たこともある人が描かれていて、「そういえば小学生の時に落語やったな」程度の気持ちでしたが、1200円くらいで一日中いられるし、映画より安いし、暇をつぶすにはちょうどいいかもしれない。

まだ上の階はストリップ劇場で、人の出入りもあんまりなかったので、おっかなびっくりでしたが、まあ、入ってみるかと。

ところが入ってみてびっくり。二階から見る客席はほぼ満席で、詰め襟学生服を着た自分がおそらく最年少だったと思います。ご年配の方々に囲まれ、その異様な空間に圧倒されましたね。まあ、みんな集中していないですから(笑)。

高座で人がしゃべっているのに、飴を配ったり、弁当を食べたり、他の催し物であんなにガサガサしている空間はありません。もう、それがおかしくておかしくて……。

前座、二ツ目が話す時はぼんやりと、トリの人が出てきたときはちゃんと集中して爆笑。

「のびのびした、ぬるま湯のような空間」を話し手と聞き手がゆるい感じで一緒に作っている。何かすごいものを見てしまったな、と。それからずっと、定期的に通うようになったんです。

――今度は、落語にハマっていくんですね。

一之輔氏:寄席の空間がとにかく心地よくて、自分にはぴったりだと気づいてしまったんです。

そのうち、学校にいる時も落語のことを考えたいと、落語研究部をやることにしました。20年くらい、幽霊部同然だった落語研究部のまったく使われていなかった部室を復活させてもらっての、スタートでした。

ひとりじゃ寂しいので、生物部の友人を「こっちのほうが面白いから」といって辞めさせて。翌年は新入部員も3人入ってきて、それなりに部の体裁も保っていました。それからはずっと落語漬けの高校生活でした。

ラジオは相変わらず聞いていましたが、だんだんとラジオより落語のテープを聴く方が多くなっていましたね。

勉強の方はハマれていなかったようで、成績は500人近く生徒がいる中でビリから20番目。最初の大学受験はすべて落ちてしまいました。1 年間予備校に通いながら、はじめて勉強の面白さに触れ、そこでようやく勉強にも「ハマる」ように。楽しさを知ってからは成績もメキメキと上がり、しまいには先生から、「この調子ならもっと狙える大学が増えるぞ」と言われるくらいになっていました。やっぱり行くならラジオ放送関係の仕事に進みたかったので、第一志望だった日大の芸術学部放送学科に進みました。

箸にも棒にもかからなかった自分が無事に入学できた大学でも落語一色。入学してすぐに、落語研究会の様子を覗きにいったのですが、変なところでした。部員は7人くらいで、坊主頭の女性とか、「楽だから」と体育館なんかで使う内履きのシューズを、外用で履いていたり、柔道着を普段着にしていたり……。

「何か気が合いそうだな」と思っていたら、すぐに歓迎会に連れて行かれ、そのまま入部。先輩の「あんなもの行ってもムダだよ」というアドバイスを真に受けて、入学すぐの学科オリエンテーション合宿に参加せず、“楽しいキャンパスライフ”を逃した自分は、ますます落研にのめり込んでいきました。

――せっかくの輝かしい共学生活だったのに(笑)。

一之輔氏:学科では完全に取り残された感があったので、授業も出たり出なかったり。ほとんど部室に入り浸っていました。部室は学科を超えて、文化部全体のサロンのような場所になっていて、変な人がいっぱい来るので飽きなかったですね。ぼーっと漫画なんかを読んでいると、OBがやってきて、「よし、飲み行くぞ」って。そんな日々を過ごしていたおかげで、ギリギリの卒業でした。

映像関連のアルバイトはしていましたが、すでに放送業界よりも落語に気持ちが傾いていました。あの日浅草で落語に出会って以来、落語を覚えて人前で右向いて左向いてしゃべるというのは、自分に合っていると気づいていました。楽しいというより、向いている感じ。身体的感覚と言うか。

とはいえ、大学を辞めてすぐに「落語家になる!」というわけでもなく、4年間は将来のことをあえて具体的に考えないようにしていましたね。まわりも、ほとんど就職活動する雰囲気もありませんでしたし。まだ、まだと思っているうちに大学を卒業してしまい……。好きを仕事にしてしまってもいいのかという想いもありましたが、「よし、やろう」って。落語で食っていくことに決めました。

一朝師匠のもとへ
「楽」にして、好きなことにとことんハマる

――いよいよ落語を仕事に。

一之輔氏:寄席でよく見ていた、師匠・春風亭一朝の元に入門しました。弟子がこんなこと言うのもアレですが、師匠の話すリズムや音感が気持ちよかった。音楽的な感性とでも言いましょうか、非常に耳に心地よかった。あと見た目が優しそう(笑)。怖い人はダメ。談志師匠だったら……、追っかけられて殺されてしまいそうですしね。

で、意を決したのが4月の21日。でも気が小さいから、なかなか声が掛けられない。「ああ、今日はダメだ」。翌日も、「あっちの方向に歩いていったからまた明日」、その翌日も、「雨が降った時に声をかけたら、失礼だな。また明日」と意味不明な延期を繰り返し、ようやく声を掛けることができたのは、決意して一週間後でした。

近所の喫茶店に連れて行ってくれた師匠は、やっぱり見た目通り優しく「食えないよ」「それでもやりたいかい」と諭(さと)すように意思確認してくれました。どの世界も同じでしょうが、落語もなかなか易しくない世界で、今も落語界全体で900人近くの噺家がいるわけですが、噺家のすべてが高座でお話しさせてもらえるわけではありません。ほんのひと握りです。「それでも、やりたい」という自分の腹づもりを聞いて、師匠も「じゃあ、親御さんに会おう」と。

――優しく諭してくれる……、親のような存在ですね。

一之輔氏:「酒と煙草はダメ」。師匠からは礼儀作法について厳しく言われましたけれど、それ以外はとても自由でした。また、最初に親に会った時も「今日はこれで。ではお預かりします」と言って、そのあと一緒に向かった中華屋で「じゃあ、ビール飲むか」と。俺の前ではいい。コソコソやるな。嘘だけはだめ。あぐらもかけ。「そっちの方が着物が汚れず機能的だから」と。これは大師匠である、五代目春風亭柳朝の教えでもあるんです。

ほかにも「女中になるために来たんじゃない」と言って、掃除や洗濯といった昔ながらの前座修行よりも、稽古するように言われていました。その分、落語のネタを覚えたり、映画を見たり、お芝居を見たり、本を読んだり、いろいろなものに触れる時間を、落語に役立つことをしなさいって。

ただ自由だからこその厳しさ。自分次第。時々急に「稽古してるか」と言われたりするんです。どっちがいいか悪いか、それはタイプによるのでしょうけど、自分は師匠のもとに入門できて、運がよかったと思っています。

入門してから、二ツ目、真打ちと、めまぐるしい15年でした。前座時代は、噺に関係なく「気働き」がよいと売れる。ところが、二ツ目になると、入門して4年目と15年目くらいの人間が同じ土俵に立つので、どうしたって噺が上手い人に仕事がいく。それで昇進してすぐは仕事がなくなるんですよ。

自分も2年くらい仕事がありませんでした。二ツ目になって、すぐに所帯もって、翌年子どもが生まれて、しばらくは家にいました。プレッシャーはなかったといえば嘘になりますが、辛いとか辞めようと思ったことはありませんでした。器用なことはできないので、とにかく場数を増やして、毎月勉強会をして、ネタを月二本くらい覚えていくしかないと。3年目位から、ありがたいことに周りの人がだんだんと声を掛けてくれるようになりました。

やわらかい軸で、落語の真ん中に生きる

一之輔氏: 真打も、こんなに早くなれるとは思っていませんでした。とにかく目の前のこと、いただいたご縁を繋いでいって今に至ります。会場の規模とか、そういった具体的な目標を少しずつこなしていった感じもありますが、ただ、そこに歯を食いしばるような感じはなかったですね。周りからは、別の意見もいただきましたが、気になりませんでした。

また、「お客さんにあわせる」というよりも、自分が面白いと思っていることに対して、登場人物にこう言わせようとか、自分の場合は「八っつぁんは、こう言うよな、言わないよな」などということを考えて、「楽」に楽しんでやっています。それを面白がってくださるのは、本当にありがたいですよね。これが年齢を重ねて、年々若くなるお客さんとの感覚がズレていくこともあるわけで。でも今は、それも含めて楽しんでいます。

噺家はみんなそうだと思いますが、寄席の場合は特に、袖から、客層、男女比率、年齢層などをちょっと覗きます。ウケているか、そうでもないか。そういう空気を感じながら、何を話すか決めて臨むんです。寄席には、爆笑派も、地味な人も、あえていろいろな人が出てきます。全体のバランスを考えて。間に挟んでいる時は前の流れを変えないように、次の場に進みやすいようにして。トリの時は、思いっきり笑わせる、とかね。自分の役割というのがあって。そういうのは意識していますね。

高座の外での今の自分の役割は、書籍の出版や番組出演、インタビュー取材など、お声がけいただいたらなるべく出ること。僭越(せんえつ)ながら、少しでも落語を世間に広げる窓口になれればと思っていますし、そうすることで落語の魅力が広がって、また自分も話し続けることができると思っています。

――ずっと落語を楽しむ真ん中にいたい。

一之輔氏:そうやって最後は一日一席くらいしゃべって、子どもから月三万円ぐらい小遣い貰って、「昔ちょっと売れました」なんて言って死ぬのが理想ですね。とはいえ、平均寿命をまっとうしたとしても、まだ40年近く。まだまだです。

キツいと思ったことはありませんが、ピンチのようなことはたくさんありました。台詞(せりふ)が出てこない、絶句したこともありますし。でもね、「命までとられるわけじゃあるまいし」。やりたいことがあれば「ハマって」どんどんやっていく目の前に立ちふさがる困難も、突破するよりはくるりと回って進んでいく。ちくわのような、車道にあるオレンジ色のバーみたいな、衝撃を受けてぐにゃっと曲がっても、へっちゃらな「やわらかい軸」で自由に、右に左にしながら、前に進んでいければと。

何かとあくせくしている今の世の中ですから、こういうところくらい、のんびりしてもいいんじゃないかなって思うんですよ。

本記事収録!道を切り拓き、みずからの生業を作った12人の物語

春風亭一之輔さんも登場する、道を切り拓き、みずからの生業を作った12人の物語(インタビュー集)です。

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