シリーズ「ほんとのはなし」好評連載中

喜国雅彦さん(漫画家)「こっちこっちと誘われて漫画家に」インタビュー

長年連載された「傷だらけの天使たち」で人気を博するギャグ漫画家で、「本棚探偵」シリーズでは無類の古書好きとして知られ、それ以外にもヘビメタ好き、マラソン好きなど、多方面に活躍の場をもつ才人。素直に人の言葉を聞いて、子どものころからの予定通り漫画家に。同じく漫画家である愛妻の国樹由香さんとの馴れ初めなど「あきらめない男キクニ」の真骨頂エピソードも登場する喜国さんの「ほんとのはなし」お届けします。

こんな話をしています…

  • 考えれば、進む方向はいつもほかの人が見つけてくれた
  • 高校生の頃、女の子の脇の下を見て喜んでいる自分はどこかおかしくて変態かもしれない、と悩んでいた 
  • (漫画家への道は)やめたらどうしようもないけど、続けていたらどうにかなるかもと思って続けた 
  • 長期的なことは考えていないんです。いつも今年のことしか考えていない。

喜国雅彦(きくに・まさひこ)氏プロフィール

1958年香川県生まれ。多摩美術大学油画科卒。1981年に週刊ヤングジャンプに掲載された「ふぉーてぃん」でデビュー。1987年からヤングサンデー(小学館)で連載を開始した「傷だらけの天使たち」がヒット。1989年にみうらじゅんらとともにロックバンド「大島渚」を結成し、「三宅裕司のいかすバンド天国」に出場。1994年からはヤングサンデー(小学館)にて、マゾ的嗜好の男とサド的嗜好の女をフェティシズムを描いた「月光の囁き」の連載を開始。同作は1999年に映画化された。漫画以外では『東京マラソンを走りたい』(小学館)、『シンヂ、僕はどこに行ったらええんや』(双葉社)などのエッセイや、綾辻行人『十角館の殺人』(講談社文庫)などの装画も多数手がける。最新刊は『ROCKOMANGA!』(リットーミュージック)。

マラソンは走らなくても完走できる

――漫画家以外にもフルマラソン走られたりいろいろな事をやっていますね。

喜国雅彦氏: 日本各地を走って連載していた『キクニの旅ラン』(小学館)がこの3月に出版されました。それから4月には、ヘヴィ・メタル専門誌『BURRN!』に23年間連載していた『ROCKOMANGA!』(リットーミュージック)が出る予定になっています。この作品は長期連載だったので、古いネタが新しい読者にわかるように各作品に解説もつけました。そのとき、自分でもオチの意味を忘れているのがあったのですが、Twitterでつぶやいたら、わざわざ調べてくれた方がいて、すごく有難かったです。

マラソンって7時間あれば、走らなくても完走できるんですよ。関門さえなければね。僕の『東京マラソンを走りたい』(小学館)という本は、ほかのマラソンの本とちがって、永遠の初心者という視点で書いています。記録よりも、走っている時に何を考えているのかとか、練習をどうやって楽しむか、とかね。ランナー向けの本は多いんですが、ほとんどが身体の使い方や足の運び方にページが割かれているんです。別に記録なんかどうでもいい、ただちょっと汗をかきたいんだという人向けの本ってなかったので、僕なんかが書く意味もあると思いました。

記録を目指したら、挫折したり怪我したりします。スポーツをやっていて怪我をするほど、腹立たしいことはありません。僕みたいな文系は、ストレス解消でスポーツをしたいんです。なのにそのおかげでケガして、3か月走っちゃいけないと言われて、余計にストレスをためても仕方ないですからね。でも僕の方法なら誰でも走れます。なにせ、この僕自身が、反復運動大嫌いですから。

嫌いなことは無理してやらないほうがいいというか、考えれば、進む方向はいつもほかの人が見つけてくれたんです。幼稚園の時、友だちにメンコで釣られ、高校の時に美術の先生が、「こっちこっち」と言うので美大に行き、大学でどうしようかなと思っていたら、しりあがり寿とかが「こっちこっち」って言うから、やっぱり漫画だと。そばで見ている人達は、「こいつどうするんだろう」と不安に見てたかもしれないんですが、僕自身に不安はありませんでした。というか、何も考えていなかったのでしょうね。美大を受ける時は希望しかなかったし、美大を卒業して、何も資格のないまま社会に出るのも何にも怖くなかった。「漫画の持ち込みでどうにかなるだろう」と、変な自信があったんです。


小さいころから漫画家

喜国雅彦氏: 僕はひとりっ子だったので一人で遊ぶしかなかったのでしょうね。もの心ついた頃には、すでに絵を描いていたようです。近所に一人、絵の上手な子がいて影響されたのか、好きとか描こうとか思う前に描いていた感じですね。幼稚園の時、高松市内から農村部に引っ越したのですが、転校初日は友だちもいないので、しかたなく休み時間に絵を描いていたんです。するとみんなが集まってきて、「すごい」「上手」と言って、僕が描いた漫画を次々に持って行くんです。その代わりにビー玉やメンコをもらって、ここで社会の成り立ちみたいなものを覚えました。絵を描くといいことがある。欲しいものが手に入る。そのときのそういう思い込みがその後も絵を続けさせ、そのままここまで来てしまったと。

七夕の短冊には「漫画家か本屋さんになりたい」と書いたのを覚えています。昔はいろんな年代の子が一緒に遊びましたが、絵が描けたおかげでガキ大将の横っちょあたりに参謀みたいな感じでくっついていられたんです。漫画で読んだ知識を使って「こんな遊びどうでしょう?」とか「こんなルールどうやろう?」って、これまでの遊びにアレンジを加えて提案すると、「お前はいいアイデアを出すから、ここにいろ」と言われて、パシリにされずにすみました。

とまあ、こんなふうに遊びの中で、昔の子どもは社会の仕組みを学んだものです。それも絵のうまさというよりは、漫画の力でしょうね。小学校の高学年のころ、すごく絵の上手な子がいたんですけど、彼の絵はきれいな風景画でまじめな絵なんです。小学生だとやっぱり「サイボーグ009」とか「巨人の星」のような漫画の方が、人気者になれました。

 漫画家になりたいといっても、実際になれるとは思わなかったので、高校2年までは自分は文系に進学するものだと思っていました。でも僕の学校に、香川では有名な美術の先生がいて、自分の教え子を美大に行かせて、みんなでグループ展をやろうと計画していたんです。田舎の普通高校なのに、多摩美の合格者数が全国トップクラスで、僕らの年は7人も入りました。


その先生に「美大にいかないか?」って言われたから、「目指してみようかな」と思ったんです。いろんな賞をもらって、外国でも賞をもらうような人が言うなら、行けるのかなと。とはいえ、高校2年の後半まで何にもしていなかったので、急いで美術部へ入って、1年間、死にものぐるいで描きました。スパルタでしたね。

高校3年になったら、普通の授業も出ずに朝から学校の門を乗り越えて入って、部室で毎日ずっとみんな競い合うように絵を描いていました。担任の先生も「お前今日授業に来ていたのか」「あんまりおおっぴらにさぼらないようにね」なんて言って理解があったんです。もっとも誘った美術の先生からは後になって「お前が受かると思わなかった」って言われましたけど。


――美大進学を決めたのが1年前……。

喜国雅彦氏: 受験の時はびっくりしました。先生や先輩から聞いてはいたんですけど、東京の予備校にいた人の中には10浪の人もいたそうで、もう受験生の絵のレベルじゃないわけです。そういう人の絵と僕等の絵が並ぶと、明らかにうまさでは負ける。ただし、先生は、絵の良さはそこじゃないから、泥臭く一生懸命やれと言ってくれていました。そこが絵や音楽がスポーツの勝ち負けとちがうところで、熱がこもっていれば泥臭い絵が上手な絵に勝てたりするんだと。

美大の受験生って、一教室25人ぐらいなんですが、退室のときに黒板の下に全員の作品を受験番号順に並べるんですよ。それを教授たちが見て、合格者を選ぶんですが、繊細できれいな絵の横に、ダーッって塗り込めたような激しい絵があったら、きれいな絵って死ぬんですよ。だから先生は「泥臭くやれ」って言った。その通りに「泥臭く、泥臭く」って言いながら絵を描いた泥臭組が全員合格しちゃったんです。

僕は受験の時、自分よりうまいやつの受験番号と名前を覚えていたんですけれど、みんな落ちていました。美大側も、ある意味完成されている子を教えるよりは、泥臭い絵をどういうふうに方向づけるかという方が、教授たちも面白いと思うんです。僕は、「これでちょっとだけ漫画家に近づけたかも」と思いながら美大に行ったんです。

人気者になろうと思って絵を描いたわけじゃなくて、絵を描いていたら人気者になった。先生が「美大に行け」と言ったので、「じゃあ行こうかな」と受験した。流されていると言えば流されているんですが、それぞれの場面で「やっぱりこれしかないよね」との思いもありました。

「しりあがり寿」はすごかった

喜国雅彦氏: 美大に入ってからも相変わらず漫画家は夢物語だと思っていたので、一切描きませんでした。そのうえ、当時、多摩美の漫研にはすごく面白い漫画を描くヤツがいて、学内だけじゃなくて、他校にも名前が知れ渡るほど有名だったのですが、僕も入学早々、彼の作品にショックを受けましてね。「このセンスはすごい。こんな漫画は描けっこない」と、すっかりやる気をなくしていたんです。

その彼とは「しりあがり寿」なのですが、在校中にデビューしまして。それで、ちょっとやる気が復活した。彼が世に出られないなら、僕の出番もないけれど、あとに続くことならできるんではないかと。卒業近くになって、親が「就職はどうするんだ」とか、「教員になるのか」とか言い出して。美大でとれる資格は教員しかないけど、教職はとっていなかったし。だったら漫画家になるしかないなと思って、4年から漫研に入って、漫画家を目指しました。

決めるのが遅いんですね、僕。大学受験も高3で美術部に入って、漫研も大学4年で入って、そこから目指すんですから。そしてここまで順調にすすんだ運も一回途切れます。ここからデビューまでに5~6年かかることになるんです。

出版社に持ち込んでも、これがもうダメ。箸にも棒にもかからないという状態が5年ほど続きました。で、普通ならここでやめているんですけど、「お前は本当はこっちだ」と方向転換してくれる人がその時にいなかったので、ただずるずると描いていました。ただ励みになったのは、持ち込みの友達やアシスタント先の先輩とかが、ぽろぽろと順番にデビューしていったこと。だから、やめたらどうしようもないけど、続けていたらどうにかなるかもという気持ちではいました。

世の中はバブルに向かうところで、どんどん新しい雑誌も増えていました。持ち込みしていたのは『ヤングジャンプ』ですが、本誌が無理でも増刊がいっぱい出ていました。当時は今とちがって、どこの雑誌も新人向けにいっぱい門戸を開いていてくれて、それでどうにかねじこめそうだと思ってたんです。まあ、実際は上手くいきませんでしたが。

「人違い」でデビュー!?

――足掛け6年、デビューのきっかけは?

喜国雅彦氏: 実は、人ちがいでデビューしちゃったんです。大学を卒業して多摩美の漫研のOBたちと同人誌を作ったんですが、それをしりあがり寿が「僕以外にもこんな人がいます。目についたら声を掛けてくださいね」っていろんな出版社に配ったんですよ。で、それを見た人から、僕のところに話がきて、「4コマ漫画を書かないか?」って言われたんです。


持ち込みで描いていていたのは暗い青春漫画だったんですけど、今までの習性で、「こっちだよ」と僕に方向を示してくれる人が現れたと思ってしまって、「描きます描きます」と答えたんです。

でも描きながら、「あれを見て、どうして僕に4コマ漫画を描けと言ったんだろう」と思って、描き終わってそれが増刊に載ることになった時、「ところでどうして僕に4コマを描けと言われたんですか?」と聞くと「この作品のここが面白かった」と指さしたものが、ちがう人が描いた漫画で、「それ、僕じゃないですよ」「えぇ~っ!?」ってなったんです。

――その4コマ漫画が元になって、初連載の「傷だらけの天使たち」に。

喜国雅彦氏: 最初に言われた時に、商業誌で4コマ漫画を描こうなんて思ったことは一度もなかったので、逆に今までにないものにしようと思いました。普通4コマ漫画は笑うものだけど、泣けるものや怒りにしてやれと。コマの大きさも変えてやれ、タチキリも使おう(註、紙の幅一杯に描くこと)とか、何も考えてなかった分、やけくそでいろんなことができて、かえって面白いものができたんです。

そうしたら反響もあって、連載の話がきたと。もし自分から4コマ漫画を描こうと思っていたら、普通に描いて、何の反応もなく終わったと思うんですが、僕の場合は、たとえまちがいであろうと、やはり人から道を示された方が、上手く行くんだなあと思いました。

本について

喜国雅彦氏: うちは裕福ではなかったので「おもちゃを買って」と言えなくても、誕生日とか特別な日に、1年に1冊とか2冊とか本を買ってくれる家だったので、それを読んでいるうちに本を好きになったという感じですね。あとは学校の図書室にならんでいたポプラ社の江戸川乱歩やホームズの全集を奪い合って読んでいました。大きくなって、そのころ買えなかった本への怨みを晴らしている、という面もありますね。古書を買う理由の一つには。

今、手持ちの古本を減らしているんです。というのは、震災の時にボランティアに行ったんですが、本やレコードって、持っていた人には宝物で、どんな想いがこもっていようと、泥の中に埋もれたら、もうゴミでしかないことがわかったんです。

それを見た時に、自分の本を生きている間に何とかしなければと思って、50年間かけて集めた本を、残りの人生で市場に戻そうと思うようになったんです。僕がここでぱったり逝ったら、その価値がわからない家族には迷惑ですし、処分されてしまったら、僕の後に続く古本好きが困りますしね。

世の中にこれだけしか数がないってわかっている希少な本は、また市場に返さなきゃいけないんです。お店で買う段階で「処分する時はまたこの店に引き取ってもらう」という約束を交わすこともあります。だから今、残すかどうかを選別する第一段階として読み返しているのですが、人生で一番本を読んでいるかもしれません。

――捨てられない本というのは

喜国雅彦氏: 面白いか面白くないかとは別に、小さいころに読んだ本はてんびんにはかけられませんね。紙の本には思い入れという要素が加わります。それこそ、アナログならではの価値ですよね、同じ横溝正史の『悪魔の手毬唄』(角川書店)にしても、各社発行のを合わせると10種ほど持っているんですが、僕の中で一番おもしろく感じるのは、一番最初、中学1年の時に読んだ角川文庫版なんです。これは何があっても捨てられない。

この本を買った時、少ないお小遣いの中から買ったという思い出が本に詰まっている。そうやって選ぶと、中学の時に買った本は処分できない。最後まで僕と一緒にいて、棺おけにも入ってもらおう、と思っています。中学生の僕は、古本屋さんが困るような稀覯本も買ってないので問題もありませんし。

大人になって出会った本が僕の人生を変えたと思っても、中学時代に出会ったつまらない本のほうが価値が大きい。そういうことを考えていたら、本にいつ出会うかもすごく大事だと思います。僕の中では、親が「読んでいいよ」っていう童話よりも「何を読んでいるんだ!」って、しかられた江戸川乱歩とか横溝正史のほうがいい本だと思ってそちらに夢中になっていましたが、もっと童話を読んでいたら、と思うことがあります。大人になって読む童話の味気ないこと。これを子どもの時に読んでいたら、違う人生になったのかなと思うことがよくあります。確かめることは不可能ですけどね。

高校生の時に、谷崎潤一郎の『痴人の愛』(新潮社)を読んで、衝撃を受けました。僕は今でいうフェチだということに、自分自身で気づいてなかったんですよ。女の子の脇の下を見て喜んでいる自分はどこかおかしくて変態かもしれない、と悩んでいたのですが、谷崎を読んだ時に、自分の普段考えていることが全部そこに書いてあってたんですね。そしてまた、そういう本を書いている人が教科書に名前が載っている。友だちの家の応接間の全集に入っている。その事実が、高校生の僕に生きる自信を与えてくれたというか、「変態でも生きていていいんだ」と存在を肯定されたように思いました。『痴人の愛』という何気に読んだ1冊の本で、次の日から人生がバラ色になったんです。

本とは何か、をひとことで表すのは難しいですが、あの出会いは大きかったですね。それもあって、後に『月光の囁き』(小学館)という、谷崎を意識した作品を描いたのですが、高校生の自分がもらった救いを、この作品で誰かに返せるかもと、念も込めることは忘れませんでした。最近になって「『月光の囁き』が大好きです」とか、「人生が変わりました」とか言ってくれる人に会うと嬉しくなります。「君は一人じゃないよ」と、谷崎からもらった言葉が、誰かの手に渡ったかもしれないんだなあ、って。

ラブクレイジーに生きる


喜国雅彦氏:
 僕が昔、竹書房でマージャン漫画を書いていたころ、そこが開いたパーティーに行ったら、彼女(国樹由香さん)が別の人に連れられて来てたんです。

国樹由香さん:(ここで登場)当時私はカット書きのバイトをしていて、編集さんに誘われて行ったパーティーだったんです。会場真ん中の柱の横に、宇宙一つまらなそうな顔をして立っていたのが喜国さんでした。私はファンだったので、「大ファンです。いつも楽しく読んでいます」と言ったら、そっぽを向いたまま、「ああ」って、それだけ。あまりの感じ悪さに腹が立ち、漫画家アシスタントの友人に電話でその話をしたら、その子も彼女の先生も、なんと喜国さんと知り合いで。「そんな人じゃないよ。おかしいな。確認してみる」と。それで判ったんですが、「生まれてはじめて女の子にファンだって言われたから緊張して、そっちを向けなかった」ということらしく。もちろん信じられず、調子のいいことを言ってと思いました。


喜国雅彦氏:
 いいえ本当です。しゃべれなくてドキドキしてたんです。

国樹由香さん:あとで「あの時声をかけてきた女の子はロックが好きそうだし、気が合いそうだ。今、アシスタントを探しているから来てほしい」と友人経由で電話番号が回ってきたのですが、1か月間無視していたんです。そうしたら友人が「自分も手伝いに行ったことがあるけど、すごくいい人で紳士だから、安心して行っていいよ」と言うのでやっとその気に。

そうしたら本当に優しくて、初対面の悪印象がいっぺんで消えてしまいました。部屋もきれいで仕事は楽で、おいしいものも食べさせてくれて。次の仕事依頼が来るといいなぁと思っていたら、電話が来て、「次回もお願いしたいです」って言ってまた黙ってしまうので、「あれ?また感じ悪いモード?」って思ったら、「仕事じゃなくて、結婚してもらえませんか?」って言われたんです。


――2度目にして。

国樹由香さん:「彼氏がいます」って言ったんです。そうしたら「待つ」と言って、本当に4年間待ってくれたんです。その間も色々と相談に乗ってくれて、最後は必ず「俺のほうがいいのに」って言っていたんです。4年後に彼氏と別れたあと、1年間つき合って1991年に結婚しました。

喜国雅彦氏: 漫画と一緒ですよ。基本、あきらめないんです。

――それから22年後(2013年)は、どうですか?

国樹由香さん:本当に結婚してよかったとしか言えないです。何の不満もないです。出会って26年ですけれど、26年前より優しいんですよ。 

喜国雅彦氏: みうらじゅんさんに「ラブクレイジー」と言われています。それくらい仲がいいので。

国樹由香さん:毎日一緒で仕事も一緒。みんなにはびっくりされるけど、顔を見ていないとイヤだから、同じ仕事部屋なんです。


喜国雅彦氏: 小説家なら無理だと思うんですよ。一人でやる作業だから。でも漫画はネタを考えている時は一人ですけど、実際の作業はテレビを見ながらでもしゃべりながらでもできるから、仕事場が一緒でも問題ないんです。
ーー喜国さんにとって書くこと、仕事とは。
喜国雅彦氏: 僕は基本的にやりたくない仕事はやらないです。「お仕事感」とか「商売」というのが好きではないんです。今まで1回だけ、お金のためにやった仕事があって、あんまりやりたくない仕事だったもので、はじめて自分でギャラの交渉をしたことがありました。
漫画家のギャラって後で振り込まれてはじめてわかるんです。23年連載が続いた『BURRN』はヘビーメタル専門誌だし、古本のことを書いている「本棚探偵」もジャンルが限定されている。そんなふうに読者を狭く限定したもののほうが「お仕事感」がなくて好きです。万人にではなく、届く人に届けばいい。
そんな濃い仲間から、「よかった」とか「面白かった」と言われるのが楽しい。僕自身も自分に向けて描かれている(と思える)作品が好きだったので、同じ方法で返したいと思っているんです。
もちろんヒットするにこしたことはありません。特定の人たちに向けてやっていて、そこにいつか行列ができるようになればいいなと思っています。
長期的なことは考えていないんです。いつも今年のことしか考えていない。
僕の人生、自分で道を見つけるより、誰かが「こっち」だと言ってくれる方が正しいようですし。5月から新装刊の雑誌で新連載が始まります。久しぶりのエッチものです。気がついたら、この数年そういうの描いてなかったので、気合いが入ってます。
マラソンの本は『キクニの旅ラン』というタイトルで出ているんですけど、目標だった全県制覇がまだなので、どこかで続きが描けたらいいなと思っています。23年かかった『ROCKOMANGA¡』の単行本化の作業が終わり、これから4冊めの『本棚探偵』の作業に入ります。うーん、見事に傾向がバラバラですね。でもこれが、今の喜国です。