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志村一隆さん(水墨画家・メディア研究者)「予定調和からの解放」インタビュー

国内外のメディア、コンテンツ業界の調査研究に従事、水墨画家としても活躍する志村一隆さん。WOWOWでの衛星放送市場立ち上げ、米国MBA留学、株式会社携帯WOWOWの立ち上げ、高知工科大学での博士号取得と、精力的な活動の背景には、常に「自由」に対する想いがありました。「予定調和からの解放」を説く志村さんの軌跡、「ほんとのはなし」お届けします。
こんな話をしています……
面白いかどうか、自由かどうかですべて決めていた
「自由」や「解放」といったものへの執着が強かった
自分の作品をもっと売るにはどうしたらいいか、客はどこにいるのかという考えをクリエイター自身が持たなきゃいけない
クリエイターは社会のカナリヤ
志村一隆(しむら・かずたか)氏プロフィール(※インタビュー時)
1968年、東京生まれ。1991年早稲田大学卒業、WOWOW入社。2001年ケータイWOWOW設立、代表取締役就任。2007年より情報通信総合研究所で、放送、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学でMBA、2005年高知工科大学で博士号。著書に、『明日のメディア-3年後のテレビ、SNS、広告、クラウドの地平線』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『明日のテレビ-チャンネルが消える日』(朝日新聞出版)、『ネットテレビの衝撃-20XX年のコンテンツビジネス』(東洋経済新報社)などがある。また水墨画家としても、海外で高い評価を受けている。

墨絵 http://sumi-e.co/

ボーダーを超えていく

――メディア研究者、水墨画家として活躍されています。

志村一隆氏: 8月末から9月にかけて、水墨画の展覧会を行いました。まず水墨画を描いて、その絵をデジタル処理しています。ただ書いているだけでは、海外には全く届かないので、デジタルに変換したものを印刷するなどといった、現代風のやり方にトライしています。デジタルが入ってきて、電子書籍になったり、様々なデバイスで見られたり、色々と変化していくと思うんです。こういった技術や考え方は、世の中に大きく影響するのではないかと思い、自分の水墨画は、世の中に影響を与える技術や考え方をコンセプトに作っています。いわゆる、トランスコーディズムというものです。

アメリカのテクノロジーの変換を見ていると、昔、デジタルでビットに全部変わっていった時、それを再構築するんだという流れがあったのですが、それをマネました(笑)。

テキストにしろ、画像にしろ、映像にしろ、全部iPhoneやアンドロイド携帯、あるいはテレビに最適化した形に変換して出されています。そのエンジンや機械などを開発している分野が、結構熱かったんです。水墨画もそうあるべきだろうと思いました。水墨画だけではなく、世の中の動きや人々の考えも、組織だったり国だったり、風土や住んでいる場所などにひとつ根付く「ローカル」ならではのものがあると思います。

だけどそれだけじゃなくて、そのボーダーを越えて、コスモポリタン的な考え方もこれからどんどんスタンダードになっていくと思うんです。それをアートに反映させるとしたらどういう作品になるのかというのが「トランスコーディズム」なんです。

普段の仕事内容は、アメリカの最新ベンチャー企業やビジネス、テクノロジーを調べたり、そういった会社を見つけてきて日本の人たちに紹介したりする、といった感じの仕事です。



メインストリーム、型を嫌う

志村一隆氏: うちは芸術の家系ではありませんでしたが、本はとにかく家にいっぱいあったので、よく読んでいたと思います。うちの父が本好きで、子どもの頃は、本がいっぱいあることが普通だと思っていました。一番覚えているのは小学校1年ぐらいの時に父に漢字を教え込まれていたことです。それまでは外でよく遊んでいる子どもだったと思います。

漢字を覚えたことで本を読めるようになり、覚醒したといった感じでした。「読む」ということがとても面白くて、 似顔絵を描いたり、ちょっとした漫画を描いたりすることも、他の子たちと同様に好きでしたが、教科書を読むことも面白いと感じていました。4年生ぐらいの時は、授業で手を上げたり、答えを一番に答えたりすることが、快感でした。頭は良かったのですが、いわゆる優等生といった感じではなく、一番好きな言葉は何かと聞かれたら、「自由」とずっと答えているような、変わった子どもでした(笑)。

――常に「自由」を求めていた子ども。

志村一隆氏: 幼稚園のかけっこでもまっすぐ走ると決められているのが嫌で、わざとジグザグに走っていましたし、小学校の運動会でもわざとゴール直前で歩いたり、そういう規則を守らないことに快感を味わう子でした。

中学時代はロックにハマってました。最初は家にあった70年代フォークのレコードを聞いていたのですが、その人たちが60年代のフォークに影響を受けているというのを聞いて、アメリカのボブ・ディランなどにはまり、それがさらに60年代のブリティッシュインべージョンや、ビートルズやストーンズなどに至りました。お金がなかったので、FMを聞いたり、『週刊FM』や『ロッキング・オン』を読んだりして、知識を蓄えていました。

野球部に入っていたのですが、「自由じゃない」と反発して退部し、卓球部へ入りました。塾へ通っていたこともあり、成績は良かったのですが、ツッパリの自由に憧れ、ロックを聴いて過ごしていました。高校は、一番評判のいい学校に行くのが嫌で、わざと、家から近い二番目に頭のいい高校に行きました。「高校には野球をやりに行くんだ」と決めていて、ずっと野球をやっていました。勉強は一切していなかったです(笑)。

――勉強を一切せずに、早稲田へ……。

志村一隆氏: 浪人すると決めて、駿台に入ったんです。全然勉強しなかったので最初は一番ビリのクラスに入ったのですが、小さい頃から塾に通っていたのでテストに強く、全国1位になるなど、とても成績が良くなっちゃいました。ですが、へそ曲がりなので、一番の大学へ行くのは格好悪いと思ってあえて選ばず、「大学というのは就職のために行くんじゃなくて勉強するためで、実力があるやつは文学部に行っても三井物産とかの大手企業に入れるんだ」と勝手に思い込んで、文科系しか受けなかったんです。

それで早稲田に進んだのですが、大学では音楽だと決めていて(高校の時はバンドが組めなかったので)、音楽サークルに入り、ずっとバンド活動をやっていたんです。その当時の色々なサークルやライブの人たちはテクニック重視だと言って、みんな下を向いて弾いていました。でも「コミュニケーションのないライブは見ていても面白くない。自分たちは観客を楽しませなければ」と、コミックバンド的なことをしていました。全てが面白いかどうか、自由かどうかで決めていました。普通のメインストリームや目立った一番のもの、みんなのお気に入りのような、型にはまったものが嫌だったんです。

前代未聞、自由への挑戦

――卒業後、一期生としてWOWOWに入社されました。

志村一隆氏: 歴史ある組織が嫌だったんです。これは大学に入った時もそうなんですが、先輩がいたりするのが本当に嫌で、「大学にせっかく入ったんだからもう1年のうちから本当に自由にやりたい」と思って、自分でサークルを作っていました。WOWOWに入ったのもその延長線上で、「来年この会社ができるよ」という話を聞いて、「これは先輩がいないからいいんじゃないか?」と思ったんです。

要は自由にできるんじゃないかっていうことで(笑)WOWOWの面接はすごい力を入れて受けたんです。他の就活では本当にもう舐めきっていて全然真面目にやっていなかったんです。「自由に受けるべきだ」「こんな自分を取るべきだ」というような独り善がりな考え方で、本当はスーツで行くべき銀行の面接などに短パンをはいて受けに行ったりたりしていました。「学部にこだわってないって書いてありますよね」、「自由な服装で来てくださいって書いてありますよね」というような挑発的な感じでした。

当然どこにも受からず、「なんかこれ、ちょっと違うな」と思い始めて、一応スーツで回り、いっぱい面接を受ける内に、どういう話に反応がいいのか、というコツがだんだん分かってきたんです。面接官の前でわざと涙を流したこともありました。最終的にはWOWOWをはじめ、鉄鋼会社など色々な会社から内定をいただきました。

――型破りの就活……その後の新入社員生活は。

志村一隆氏: WOWOWはできたばっかりだったので、本当に自由でした。最初、6年ぐらいは営業で、電気屋さんやケーブルテレビ局を要はドサ回りしていたんですが、営業成績はなぜかずっと1位でした(笑)。その時に思ったのは、中途採用の方で、何人か先輩らしき30歳くらいの人たちがいたのですが、彼らはやっぱり体力もそうだし、仕事も10年ぐらいの経験があるのであんまり熱心にやらなかったり手を抜いちゃったりするわけです。彼らは適当なので、手を抜くところを知っている。でも自分は社会人になったばかりだったので、なにか反応があったりすると結構面白くて、細かく、とにかく熱心に仕事をしていました。

それで色々な営業の仕方を考えて話を持って行くうちに、「若い兄ちゃんが電気屋さんに来てくれる」と噂になりました。電気屋さんにくる人は、現地にあるローカル販社の人で、早稲田などキャリアを持つ人はいないわけです。それなのに、自分が行くと面白い話をするし、30歳の普通の社会人が言わないようなことを言うので、「なんか変な人だな」と興味を持たれて、息子さんの進路相談に乗ったりして、どんどん食い込んでいったんです(笑)。

――社外で仕事をしていた。

志村一隆氏: そう。それで成績が良かったんです(笑)。担当する電気屋さんでも、メインの流通は全部先輩に取られちゃって、新人は余ったところに行くんですが、お店自体もあまりケアしないようなところで、今後伸びる可能性の高いところでした。

ビックカメラとかヤマダ電機とかコジマは、今は有名ですけれど、当時はメインストリームじゃなかったんです。若手はそういうところに行かされました。20年前の彼らは、例えば大手などのメーカーからテレビを卸してもらえなかったりするような時代だったので、そこに行って熱心に仕事をする自分は、とても気に入られました。

予定調和からの解放

――98年にアトランタへ行かれていますが、研究の道へ進まれたきっかけはなんだったのでしょうか?

志村一隆氏: 20代を営業マンとして過ごして、とても自由にさせてもらい、上司に叱られてストレスを感じるような経験が一切なかったんです。このままじゃ自分はダメになるなと思いました。今でこそ有名なWOWOWも、当時は「早稲田を出てなんでこんなところに入ってんの?」と言われるような、全く知名度のない会社で、これはもう転職しようと思ったんです。

でも営業のまま転職してもランクダウンするんじゃないかと思い、大学院へ行くことにしました。慶応のMBAへ行く予定でしたが、入学金などを一応全部払って、「もう会社を辞めます」と言いに行ったら慰留されて、「留学制度を作ってやるから」と言われました。しかも「日本の学校に行ってもしょうがない。どうせ行くなら海外へ行くべきじゃないの」と、松下から来た佐久間さんという社長から直接言われて、「じゃあ海外の方が難しそうだから、チャレンジしてみようかな」と決めました。

アメリカでの経験というのがいわゆる研究生活のスタートでした。へそ曲がりだったので、都会の有名大学に行くのは嫌で、日本人のいない緑だけの田舎に行きたかったんです。それでアトランタにある小さな学校を選んで、行きました。アトランタに行ったら日本人はもちろんいなくて、南部だったので、黒人とヒスパニックの人ばかりでした。向こうの生活を最初は舐めていて(笑)、はじめの1ヶ月は全く勉強しなかったんです。

ある日テストがあって、点数が悪く、「君、このままじゃ学校は成績落第だ。ちょっとは頑張りなさい」と言われたんです。また、成績が悪いと誰も喋ってくれなくなるんです。グループワークといって、授業は5人ほどで勝手に自主的にグループを作ってレポートを発表するんですが、あんまり勉強していない雰囲気を出すと、そのビジネススクールでは本当に落伍者のように見られるんです。

――その状況からどうやって抜け出したのですか?

志村一隆氏: 「こいつとグループを組んでも何のメリットもない」と、誰からも相手にされなくなりつつあったので、「これはやばい」と急に勉強し始めたんです。授業は8時半から1時頃までなんですが、放課後、図書館にずっと籠もって、朝の3時までやっていました。

――あえて苦行や逆境を選んでいく。

志村一隆氏: 「今までしたことのない経験をしたい」という好奇心のせいです。せっかく生きてるんだから、野球も音楽もしたい。だからたとえば旅行でロシアに行った時も、その町の中に日本人が1人だけという感覚と、その環境に快感を覚えたんです(笑)。とにかく新しいもの、見たことがないものに進んでいってしまう性なんです。

「自由」や「解放」といったものへの執着が強いんだと思います。生活するための手段として、組織や日本社会に属したりすることはよくありますが、そのツールが目的になってしまうのは、考え方によっては洗脳されているということと一緒だと思うんです。それで、洗脳された人が書いたりする情報とは、要は予定調和な情報のようなものばかりで判断しないといけない。それからの「解放」なんです。また、実際に体当たりのインタビューでしか得ることのできない生の新鮮な情報、そこでしか知ることができない情報を持ってきて、紹介するのが自分の使命だと思っています。

クリエイターは社会のカナリヤ

――研究の成果と、自由への想いを本に記されています。

志村一隆氏: 本は、昔から書きたかったんです。研究所に移った時の1つの目標は本を出すということでした。もう一つは、肩書きが付かず、名前だけで勝負できる場所を探して研究所に来ました。勝負の1つのゴールというか表現方法が「本」という感じだったんです。

――新しいメディアとして「電子書籍」も普及し始めています。

志村一隆氏: 電子書籍はまさに出版社の垢抜きだと思います。本当は作家側に付いて電子書籍が儲かるんだったらプロデュースしてどんどん出した方がいいわけじゃないですか。でも、どうしても日本は、土地にしろ、電波にしろ、紙にしろ、要は低いレイヤーにまで投資してきてそこに紐づいて生活している人ばっかりだから、電子書籍をそのレイヤーとして捉えちゃっているんです。それでみんな大反対して、つまんないものにどんどん変えていっちゃうわけです。でも本当は、作り手のクリエイターにしたらとてもいい話のはずなんです。

作家さんにしても絵などを作るアーティストにしても、結局、「自分は自分の作品をどうやって広めるか」とか、「もっと伝えたい」とか、そういったところに全くコミットしてないなと思います。ある意味システム的にはうまく回っているのだと思うのですが、売る努力やどう届けるかということを消して、作品制作だけに没頭しているわけです。

さらに一歩進んで、自分の作品をもっと売るにはどうしたらいいかと、客はどこにいるのかとかいう考えをクリエイター自身が持たなきゃいけないと思うんです。

例えば本なら、電子書籍というデジタル媒体を使えば楽に解決するわけです。クリエイターは社会のカナリヤだから最先端を知らなきゃいけないのに、テクノロジーやデジタルの話をした瞬間に「いや、私は結構です」と言う人がいます。

本当はテクノロジーやデジタルを勉強して取り入れ、作品に昇華してもいいし、いわゆるベンチャー企業みたいなものをアーティストがやらなきゃいけないと思います。そういった新しいテクノロジーやデジタルで届ける方法などを考えなければいけない、そう考えています。

――新しい時代の器で、やれることはたくさんある。

志村一隆氏: 「Code for Japan」というのがあって、「Code for America」というのがもとになっているのですが、要はこれから情報がどんどんオープンになりますということです。

「オープンデータ」というのがあり、色々な国が自分たちの政府の情報をどんどんネットに出す。そうすると、そのデータを使ってベンチャー企業が「今日はあそこで火事がありました」とか、「犯罪が多い地域はここです」とマップなどにして出しているのはよく見ますよね。そういった感じで、「Code for America」をやっている人が「これから、政治よりも行政の方が自分たちに身近で大事だから、まずは行政を変えた方がいいんじゃないか」とビデオなどで演説していたんです。

考えてみたら、区役所に行くと、主婦の方たちは、余暇時間と営業時間が合っていて、システマチックでいいと思うのですが、嫌だという人もいっぱいいるじゃないですか。だから、区役所に行ってすることを、ネットを使って自由にできた方が生活は豊かになるし、住みやすくなるんじゃないかという思いがあります。それで調べていたら「Code for Japan」というのができていて、そういった活動を始めていたんです。

必然的にこの世の中の社会の仕組みとか、国家の仕組みや考え方が変わると思うんです。それがどういう風になるのか、行政がどう変わるかというのを追及し、本などに書くだけじゃなくて実際に関わって、行動していきたいと考えています。