日本における未来予測の第一人者である飛岡健氏。もともとはロケット・人工衛星の打ち上げ、研究に従事する中で、哲学、社会学、経済学、心理学、生物学……さまざまな学問を追求してきた飛岡さん。現在「人間と科学の研究所」を立ち上げ、未来予測研究会「WSF」を主宰するなど、その知見のさらなる研究と発信など多方面でご活躍されています。科学と哲学、定義の重要性、執筆についてお聞きした「ほんとのはなし」お届けします。
こんな話をしています……
・人類が考え出した考えを全部知ってから死にたい
・自分の分かるものを著者に書かせようとしたら、大した本にはならない
・現物、現状、現地を知る「三現主義」が重要
・タイムスケールをどこにとるかによって、成功も失敗も判断は変わっていく
飛岡健(とびおか・けん)氏プロフィール ※インタビュー当時
人間と科学の研究所所長
1944年、東京都生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程(航空工学)修了。東京大学航空宇宙研究所にてロケット・人工衛星の打ち上げ、研究に従事した後、哲学、社会学、経済学、心理学、生物学を進め、88年に現代人間科学研究所を設立。(現在「人間と科学の研究所」)技術、マーケット等の未来予測及び多くの企業の経営戦略の作成を専門とし、政府や地方自治体及び民間企業からの委託研究を行う。 著書は140冊を超え、『3の思考法』(ごま書房)、『“逆”思考の頭をもちなさい』(河出書房新社)、『ものの見方、考え方、表し方』(実務教育出版) 『哲学者たちは何を知りたかったの ?』(河出書房新社)など。
「人間自身」をよく知ることから始まる
――「人間と科学の研究所」では、どういった研究をされているのでしょうか?
飛岡健氏:何を志すにも最終的には人間自身をよく知らなければ、何事も始まらないですよね。アリストテレスが人間は社会的動物と言いましたが、その社会も人間が作っています。「そもそも人間はなんなのか」といったことを追求していくと、最終的には生命体とは?その生命体を産み落とした自然なり宇宙とは?というところまでいってしまいます。でも、それを考えようとする場合は、科学と哲学の両方をある程度理解しないと肉迫できません。
私はよく宗教に入っている人たちと話をするのですが、「宗教は我々人類の中においてどういう位置づけなのですか?」と聞いても、「よく分からない」という人が多いようです。でも宗教に入っている方もある種の“専門家”ではあるわけです。その質問の答えを知るためには、歴史年表を見るのが一番良い。
歴史年表には、最初に文明、その下に文化があり、その文化は芸術、宗教、思想あるいは哲学の3つにわかれている。ここに宗教が位置しているわけですが、「いったいこれはなんなのか」ということなのです。そういう一つひとつの言葉の概念整理というのが、とても重要なのです。建物を作る時に、欠けたレンガで作ると壊れてしまいます。
同じように、思想体系を作ろうと思った時に、一つひとつきちんと定義された言葉の上に思想という建築物を造っていかないとひっくり返ってしまうのです。非常に重要なのは一つの話しのしっかりとした定義なのです。
例えば、現代においてこの国で、「悟性」と「知性」と「理性」の区別ができる人はほとんどいません。この3つがどう違うのかというと、まず「悟性」というのは、“ロゴス”です。実は聖書の最初には「ロゴスありき」と書いています。「ロゴスありき」というのは宗派によって、「言葉ありき」「光ありき」「真理ありき」などになるのですが、では悟性とは一体何かと言うと、哲学用語辞典では、「あるものとあるものとを分離識別する能力」と出ています。ロゴスというのは、「単語を作る能力」とも言えます。
エデンの園の中において、アダムとイブが自然生態系の中の単なるひとつの存在として共に生きていたところ、蛇に誘惑されて禁断の実、りんごを食べてしまうのです。これは実は悟性を持つ、言葉を持つということのシンボリックな表現ですね。
その言葉を持つと同時に、自と他の分離が起こるでしょう。それが実論主義の哲学の1番大きいテーマである、「分離の不安」という、人間が言葉を操る限り本質的に持っている不安です。
言葉ができてくると、過去・現在・未来という時間を分け、それと同時に生と死を分けます。そうすると、「自分」が「未来」に「死ぬ」ということが分かります。そうするとまた不安になる。それが原罪であり、それゆえにあらゆる筋になっていくのです。そういう風なことを起こしているのが悟性です。
そして「言葉による不安にどう対処していくか」ということが「文化」なのです。その前に文明と文化の違いと相補性について語りましょう。例えば悟性が自然の中にあるものを見て、オノ、石、つるという概念を生み出します。すると木があって石があってつるがあるとすると、その三つをくっつけると斧という新しい概念になりますよね。その概念を元に実際に斧を作ったのです。その斧を使って木を倒したら、たまたま川の上に倒れて橋になる。
そういう風に、人間が言葉を持って、その言葉を組み合わせて、道具を生み出します。さらにその道具から機械になっていくのですが、それが「文明」です。言葉を持ったことで人間が持った不安にどう対処していくかというものが文化総体なのです。ですから本質的に、「文明」と「文化」というのは、相補的なものであって、そこが一番重要なポイントなのです。
――知性、理性の定義とは?
飛岡健氏:「知性」というのは単語を組み合わせて文章化する能力です。ですから、「知性」だけを使ってくると、原子爆弾や化学兵器を作ったりということになってしまいます。そこで「理性」が必要なのです。和辻哲郎という人が、「倫理とは人間が作る社会におけるひとつの調和したあり方だ」と、定義しています。どういう風に社会が調和していくか、それを考える能力が「理性」です。ですから「知性」に「理性」を加えたものが一番重要になってくるのです。 三現主義。「現物 現場 現状」をよく知ってからでないと、 物事の成功はおぼつかないのです。そういうことを総合的に研究するのが、この研究所の役割です。
――全国各地で上の講演をされているということですが。
飛岡健氏:経団連の軽井沢セミナーというのがありまして、35歳の時に、講演のチャンスをいただきました。そこで講演させていただくことによって、現在も私が主宰している勉強会、「飛岡健のスペシャルセミナー」がスタートし、色々な会員さんの輪が広がって、全国でセミナーをやるようになりました。全国へ行って、現地をできるだけ見て歩きます。好きだから、というのも理由のひとつですが、まずなによりも現地を知ることが大事。よく「三現主義」と言いますが、現物・現状、それから現地を知ることが非常に重要なのです。
それはまさに孫子の、「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」ですよね。講演の対象は経営者の方です。もちろんグローバルにやっている人もいますが、多くの経営者、中小企業の経営者は地元で生きているわけじゃないですか。だからこそ、地元のことも知らないで、他所からやってきた人間が勝手に話をしていてもしょうがないのです。
また、昔から「神は細部に宿る」と言われています。ビジネスで成功するためには、細部を細かく知って、その上で戦略を立てなければいけないのです。「戦略・戦術」などとよく言われますが、「戦闘」とはあまり言いませんよね。「戦闘」の現場を知らないで、どうして作戦をたてられるのでしょうか。
――そのような考え方を持つようになったきっかけとは?
飛岡健氏:昔、ロケットを研究している頃に、現場をよく知らなかったことが原因で恥をかいたことがありました(笑)。人生というスケールで見てみたら、そういった失敗は自分の知識になるわけですから、財産を得たようなものです。タイムスケールをどこにとるかによって、成功も失敗も判断は変わっていくのです。
人間の幸せ、宇宙の起源。奥深くまで入りこむ
――もともと、航空工学に携われていらっしゃいました。
飛岡健氏: 小さい頃、私には夢が三つありました。ひとつは音楽の指揮者や作曲者。もうひとつはプロ野球選手。そして三つつ目が、父の跡をついで飛行機を作ることでした。私の父は、中島飛行機というところで、私の恩師にもあたる糸川英夫氏の設計した「はやぶさ」や、「鍾馗」などの戦闘機を作っていたのです。そういった、それぞれ全く違う分野の道を頭に描いていました。
中学の3年間、作曲法を勉強し、数十曲作ったのですが、たいした曲ができず、「自分には音楽的才能がない」と悟りました。野球の夢については、中学の頃に入っていた野球部の監督から「お前は野球よりも勉強をしろ」と言われ、強制的に野球をストップさせられてしまいました(笑)。そういう中で、最終的には航空工学や宇宙工学をやることになったのです。
でも最終的には、「航空工学などの科学技術が人間のためにどういう風に役に立つのだろうか」という疑問を持ってしまいました。日本の社会には、専門的なことをやる人はいくらでもいるけれど、本当にこの科学技術が人間のために役に立つかどうかということを調べる専門家はいないだろう、と思ったのです。それならば、私がその分野をやろうということで、昔の社会学、つまり政治学・経済学と、今の狭い意味での社会学を含んだものを勉強しました。
実は飛行機を研究しようという時に、零戦を設計した堀越二郎さんの最後の1年間の講義を受けたのです。その講義で堀越さんは、「我々はアメリカの技術者に負けたのではなく、心理学者に負けたんだ」とおっしゃっていました。「零戦のパイロットはドッグファイティングをやっている時に、急旋回をして急降下するけど、その時に日本人のパイロットは皆、右側にしかダイブしないということをアメリカの心理学者に見抜かれていた」と。
その後に、今度は父が一緒に仕事をした糸川さんと一緒にロケットをすることになりました。当時ロケットについては、月にホテルを建てるとか、原子力ロケットを使って生態系を作っていこうといった、色々な計画が考えられていました。住民運動があるから、ロケットを打ち上げるためにはそれにもケリをつけなくてはいけないし、ロケットに人を乗せるためには宇宙医学も必要。それからもともと飛行機というのは構造体なので、建築力学をやらなければいけませんし、そのベースとして材料力学や構造力学も必要なのです。
それから後ろから燃料が噴射するので、流体力学から燃焼工学といったように全部勉強しなくてはいけないのです。飛行機とロケットを研究したという経験が、私の意識を広げたわけです。
科学というのはご存知のようにどんどん分析の為に細分化されていくので、どんどん奥に入っていき、それぞれの専門科学が生まれます。それに対して各専門を全体として統合するのが本来の哲学です。その哲学をキチッとやろうと思うと、各論をある程度知らない限りは、全体を統合することはできません。
そういうことで、色々な分野を勉強することになりました(笑)。最終的には、人間の幸せというのを考えた時に、哲学と科学を一緒にして考えなければいけないといった境地に至りました。
宇宙や世界についても深く追究しましたね。宇宙の「宇」は時間の流れ、「宙」は空間の広がりを意味していて、この言葉自体が四次元時空です。同じように「世」も時の流れで、「界」は空間の広がりで、これも四次元時空なんです。
そうすると、宇宙というのは、空間的なものとしてとらえるとスペース。秩序ある世界ということで、コスモス。もう1つ四次元時空としてはユニバースという言葉があります。世界や宇宙は、ユニバースをさしているわけですよね。そうすると、宇宙全体の起源から、そもそも人間がどうして考える力を持ったのか、といったところまで入り込んでしったのです。
――音楽がお好きとも伺いました。
飛岡健氏:例えばアインシュタイン。スイスのベルンにある、彼が特許庁の役人だった頃に住んでいた部屋が記念館として開放されていますが、そこに、「もし音楽がなかりせば、私の相対性理論は生まれなかっただろう」ということが書いてあります。バイオリンを弾いた時、右脳の中にインスピレーション、イマジネーション、イントゥーションというものが生まれ、そうしてできたものを人間同士がコミュニケーションする為の記号を操る左脳に移して出来上がったものが相対性理論だったのです。つまり、音楽があってイマジネーションが生まれる。私もアインシュタイン同様、執筆においてのインスピレーションや日常生活をする上で、音楽は必要不可欠な存在であると言えますね。
――それほど深くまで入り込んでしまう。
飛岡健氏:私は人類が考え出した考えを全部知ってから死にたいなと思っているんです(笑)。『哲学者たちは何を知りたかったの?』(河出書房新社)などという本を書いたのもそれが理由です。
この話をする上で興味深い、自殺をした二人の若者がいましたが、自殺した理由が対極的なのです。1人は藤村操という人で、この人は「人生不可解なり」と言って華厳の滝へ飛び込んで自殺しました。
もう1人は、『二十歳のエチュード』という本を書いた原口統三です。彼は本当に真面目に一生懸命勉強をしたのですが、「人類の知的、気づきというのはこんなものか」と、逆にもうやることがないからということで死んだと言われています。
私はどちらかというと、その間にあって「人生不可解だからもっと欲張って死のうよ」と。人間が考えたあらゆるものを全部知ったら、安らかに死ねるだろうなと私は思っているのです。
危機感に遭遇した時が「チャンス」
――そうして、わかったことを、本に記されています。
飛岡健氏:本郷に「麦」という喫茶店があるのですが、私が高校1年の頃から通っているお店で、クラシック音楽の店でもあります。私の本の半分ぐらいはそこで書いたものです。朝6時45分から開いていて、だいたい朝の時間は麦に行って、執筆の時間にあてています。
脳の研究をした結果分かったことですが、今まで脳の中に入っていた情報知識と、その日のうちに入れた情報知識を、できるだけ脳の中のエントロピー(無秩序さや乱雑さの度合い)が下がった状態で収納するという、入れ替え作業があるのです。一番脳のエントロピーが下がった状態、すなわち秩序化された状態というのは朝なのです。朝の方が、新しいことを考える上で一番いい状態であり、本当に創造的なことをやるのに適しているのです。
あるひとつのテーマについて、私はどの程度知っているだろうかというのは、本を書いてみると分かります。自分の知識の限界が見えるのです。自分の知識の限界をおさえるという意味で本を書くということは、非常に良いです。
でも、本を書く目的はもう1つあります。著者というのは、出版社という公の機関から書くことを認められた人です。また、本の後ろを見れば履歴も出ており、本には自分というものが表れています。ですから、私という人間を他人に紹介してもらう時、いちいち経歴などを説明せずとも、「この本の著者です」と言うだけで済むので、そういった面でも、すごく便利なのです(笑)。
――本に込められた思いとは?
飛岡健氏:非常に冷静に申し上げるならば、私と共通の人間体験がなければ、私のことを全部理解してもらうのはまず無理ですよね。それは期待してはいけないなと思います。AとBの人間の脳があるとすると、ふたつは違うわけですが、Aの考えたことがBに入った場合、Aと同じイメージができ上がるとは限らないですよね。でも、なんらかのインパクトを与えることはできると思うのです。その人が考えたり思ったりすることの、ひとつのトリガーというか。そういうものになることができればいいな、と私は思っています。
ものを書く人というのは、奥歯がダメになりますね。最初の一言と最後の一言がつながっているかどうかを考えながら書き進めると、最後の方になると歯をくいしばって脳を動かしている状態になります。だから奥歯がみんなやられてしまうのです。つながりのない文章を書くとしたら、別にそんなに歯をくいしばる必要はないですよね(笑)。構造性をそこに持たせよう、あるいは論理的整合性を持たせようと思うと結構大変です。
――『ものの見方・考え方・表し方』という本を書かれていますが、この三つをとても重要視されているようですね。
飛岡健氏:この本は今、全国の図書館に入っていて、試験問題や教科書に使っていただいているのですが、その三つのバランスを保つ事は一番重要なことです。あたかも音響システムの如く、音源からの読み出し、プレーヤー、アンプ、スピーカーの精度が揃っていないと、一番悪い所の精度に全体がなってしまうのです。そして、ものの見方や考え方、表し方を理解するためには哲学が必要です。少し話しがかわりますが、人間研究をしていると分かるのですが、人間が自発的に動く要因はやはり三つしかありません。
ひとつは志を持つこと。二つ目は「これをやらなければ死んでしまう」という「危機感」を持つこと。三つ目は、楽しい、儲かる、おもしろいなどの「実利感」があるということです。その一つひとつに関して重要なのは、感動・感謝・感激です。
感動・感謝・感激をすると、人は「使命感」を持ちます。哲学者である西田幾多郎先生は、「日本海に夕日が落ちていく時に受けた感動、それを文字化したのが私の哲学である」と言っておられます。そういう自然の持つ感動や、あるいは野口英世氏が手をやけどした時、それをお医者さんが切開して治したことに感動、感謝し、医学の世界に入っていくわけですが、そういった原点としての感動・感謝・感激があってこそ、使命感が生まれてくるのです。
あと、「食べる物がないと死んじゃうよ」となれば、人間は必死になりますよね(笑)。だから、危機感に遭遇するということも非常に重要なのです。
――危機感を力にかえる、と。
飛岡健氏:実は今、私の生み出してきたものなどを、色々な人が悪いことに利用してくれて、ビジネス的にも厳しい状況にあるのですが、逆にこういう時がチャンスだと思っています。ピンチはチャンス。そう思う為に「苦しみを楽しんでしまう」というエピクロス的知的快楽主義が大切なのです。話しは少し変わりますが、「この世はあの世への話題作りの場」と考えると、この世は楽しくなります。
私があの世に行ったら、「お前、あの時のことを聞かせてくれ」と、たくさんの人が寄ってくるだろうと思うので、この世はあの世への話題作りの場のような感じでもあります(笑)。そうは言っても、あの世が本当にあるかどうかは、あまり信じていないので、「色々なことを楽しく経験しよう」という気持ちでいます。そう考えたら苦しみも喜びも一緒なのです。
――編集者の役割についてはどのようにお考えでしょうか。
飛岡健氏:今は、色々なレベルの編集者がいますよね。昔の編集者は編集者として勉強した上で直感的に著者を発見する能力を持っていました。今の編集者はそうではなく、でき上がった人に発注するケースが多いです。そういう意味合いで言うと、自分以上の能力の人を見出すことができないでしょう。昔は、編集長35歳説という、「35歳以上になると、既存の知識の中に埋没してしまって、発掘能力がなくなる」という考え方がありました。
編集者にとって一番重要な能力というのは、今でも変わらず「書き手の発掘」だと私は思っています。それをほとんどやらず、テレビ媒体で知られている人などばかりになってしまっています。自分の分かるものを著者に書かせようとしたら、大した本にはならないような気がします。そこが、私が「努力が足りないかな」と思うところです。編集者というのは字の通り、「編む」、「集める」わけであって、自分で知識を作る人ではないのです。世の中にある知識や情報をというものを生み出すのは、あくまでも作家や研究者や専門家。それらの人々の能力を見極める直感的な力があるかないかというのが、編集者にとって一番重要なわけですよね。
色々なマスメディアの社長が集まった会合で話しをする機会をもらった時に、出版業界がダメになる理由について話しました。それは読者にやさしくて書き手に厳しいということ。「もっと易しく書け」と言ってばかりいると、言葉がどんどんイージーになり、単純化していきます。でも我々の先祖たちは、これほどたくさんの文字に「概念」を与えてきたのです。そういう難解なものをフル活用しながら伝えていくということが本当は重要なのに、「内容を理解するには、読者の勉強が必要だよ」という啓蒙運動はやってこなかったのです。それが、現代の「古典離れ」を起こしているのです。古典というのは、出版社にとってみると本当は経営のベースなのだから。それが売れなくなってしまうということは将来的な経営の土台がなくなるということです。
私の言葉で言えば、ジャーナリズムではなくてセンセーショナリズム。センセーションを起こせばいいという感じになっています。本に限らず、あらゆるメディアにおいても1つのテーマをずっと追いかけて報道していくという、ジャーナリストの本来の精神が壊れているような気がします。
文明の利器は社会を変えていく
――書籍の電子化が進んでいます。
飛岡健氏:私たちが大学院の頃、NASA(当時はNAKA)のレポートを見るのは、一番偉い先生から順番に見ていくので、大学院の学生や学部の学生が見られるのは、2、3年先でした。教える側に情報が独占されていたわけです。ところが今は、NASAのホームページを開けば誰でも見ることができるといった、「情報の共有化」が起こっているのです。それを可能にしたのは、モバイルの様々な情報機器ですよね。
もう1つ我々が注意しなきゃいけないのは、小学校に入るまでの情報量と、小学校から大学で教えられる情報量とは、前者の方が大きいということ。しかも今は、携帯で毎日のようにメールをしているから、歴史の中においてこれだけ多くの日本人が文章をたくさん作っている時代はありません。ヘーゲルの言葉で「量的増大は質的転換を来す」という言葉がありますが、そういう情報環境に生きている人の中から、とてつもない天才が生まれてくる可能性はとても高いのです。
そうすると、20代前後で芥川賞、ノーベル賞などをもらう人が出てくるでしょう。量的にみんながやり出すと、質的な変革が起こってくる。そういうことが確実に今起こっているのです。
文明の利器が出てきて情報環境が共有されるようになったことが、大きく社会を変えていくと思います。今は第三次産業革命のまっただ中で、一次産業にしても二次産業でもそうだったように、産業だけではなく生活様式、政治、経済など、世の中の全てを変えてしまう。情報産業革命によって、社会全体が変わろうとしているのです。2020年の段階においては、楽天やGoogle、DeNAなどの情報会社ではなく普通の会社でも、労働者の半分くらいは情報関連の仕事をするようになっていると思います。
――飛岡さんが、伝えていくことは。
飛岡健氏:一番重要なのは、先読み、深読み、それから本質読み。私が先をどうやって見るかとか、どういう風に注意深く物を見ていくかなど、その見方をみなさんに教えるのが私の仕事だろうと思っています。その為に未来予測研究会を三十年以上主宰してきました。未来予測に関しては、100%正しく読めるというものは、絶対にありえません。要するに、AさんとBさんのどちらが正しく読んだか、A国とB国という2つの国のどちらが正しく読んだかということの競争なのです。
主体的努力をすることによって、より正しく読んだ人が勝者になっていくということ。つまり相対的なものの見方でしかないのです。物事に誤謬性があるということが実は無謬(理論や判断に間違いがないこと)なのです。ですから不確実性ということが確実性ということ。相対性と絶対性や、誤謬性と無謬性、不確実性の確実性、不確定性の確定性。そういう見方が非常に重要だと私は思います。