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藤倉健雄さん(カンジヤママイム)「憧れこそが最大の原動力」インタビュー

「恩は私に返さなくてもいい」
チャンスを与えてくれた“師匠”たち

――パントマイムへの愛をたくさん詰め込んで、カンジヤマ・マイムとして日本に帰ってきました。 

藤倉氏:ところが、帰国した当時、日本ではまだパントマイムの認知度は低く、知られていても、大道芸の一つという域を出ておらず、ぼくが学んできた演劇の要素を取り入れたパントマイムだけをメインにやれる仕事は、どこにもありませんでした。帰国してしばらくは、「どうやってパントマイムを仕事にできるか」を考えながら、生活のために英会話学校の講師をふたつ掛け持ちでやっていました。

そんな悶々とした日々を過ごしていたある日、日本で一番、パントマイムに近い芸能で道を究めている人物を追いかければ、何か今後のヒントに繋がるだろうと考えついたんです。 「どうせなら、日本で一番のマイム的な芸を持っている人を追いかけてみよう」と、「あやつり踊り」と呼ばれる芸の最高峰であった、落語家の雷門助六師匠(先代)に会うため、寄席をやっていた国立演芸場の楽屋に向かったんです。世間知らずの若気の至りですね(苦笑)

――いきなりの頂点、しかも楽屋に押し掛けてしまった(笑)。

藤倉氏:当時の自分としては、それくらい真剣だったし、それ以外に考えられる方法がなかったんです。勿論、師匠の周りにいた芸人さん達からはたいそう白い目で見られましたが、助六師匠からは業界のルールを優しく諭していただき、お断りされました。当然と言えば当然の成り行きでしたが、この突撃のおかげで、思いもかけない幸運に恵まれたんです。

突撃むなしく、仕方なしに演芸場から新宿駅へ向かうバスに乗ったのですが、偶然にも高座を終えられた師匠がひとりで同じバスに乗ってこられたんです。さっきの今でしたから、こちらは驚きましたが、当然のように隣の席に座ってくれて、「弟子にはできないけど」と言いながらも、芸の秘訣や裏話、参考になるビデオなど、たくさんのことを教えてくれました。たった十数分間のほんのわずかの“師匠と弟子”のお時間でしたが、忘れがたい大切な思い出です。

こうして学びを求めていた時期に、カンジヤマ・マイムを語るうえで欠かせないもうひとりの人物に会うことができました。当時、渋谷にあった小劇場「ジァンジァン」に、芸人のマルセ太郎さんの猿の形態模写を見るために向かったのですが、残念ながら、そのころマルセさんは既に映画を題材とした芸を中心に据え、猿芸はやっていませんでした。

ですが、そこで偶然、司会をする永六輔さんの話芸に触れたんです。どんどんその話に引き込まれていく不思議な感覚。この時、「今のパントマイムにこの話芸のエッセンスが加われば最強だ」「永六輔さんの話芸をそばで見て、盗みたい」と、永六輔さんを目指すようになりました。 永六輔さんは、当時、毎月第一月曜に、同じく渋谷のジァンジァンで「六輔七転八倒」という、独演会をやっていました。まずはそこに通い始めることに。毎回溢れんばかりの感激をハガキに書いて、永六輔さんのマネージャーにずっと永さんへお渡し頂けるよう手渡し続けていました(笑)。

――パントマイムへの情熱だけが、藤倉さんを動かしていたんですね。

藤倉健雄氏:手紙を受け取る側の都合も気にせず、ただひたすら自分の想いをハガキにぶつけていましたね(笑)。ところが一年半くらいたったある日、突然、永六輔さんから思いがけずハガキを頂いたんです。そしてそのハガキに「この次の舞台、45分お任せしますから」ってそれだけ書いてあったのです。もう大興奮!!結果的には、それがぼくのパントマイムデビューのきっかけとなりました。

それから、永六輔さんはことあるごとに、ぼくを旅に誘ってくだいました。旅先でぼくのパントマイム芸能を評価してくださり、時には厳しい言葉を、時にはパントマイム芸をやり続けるための、次へと繋がるアドバイスをいただきました。松尾芭蕉や種田山頭火の俳句をマイムで表現する「俳句マイム」も、「欧米の真似ばかりでなく、日本らしいマイムをやってごらんなさい」と言っていただいたことがきっかけで生まれた芸でした。これらは情景描写を視覚化する点において、動きのバラエティを蓄積するのに大いに役立ちましたし、現在の演目にも活かされています。 

次への道に繋がるチャンスを、その後も幾度となく与え続けて下さった永さん。ぼくが、返しきれないご恩への感謝の気持ちを伝えようとすると、永さんは照れるように「恩は返してくれなくていい。誰か別の人に」と言うんです。自分ではなく誰かのために。そんな粋な人でした。永六輔さんの素敵な言葉は、多くの人たちに影響を与えましたが、ぼくの心の中にも今もなお、永さんの言葉は生き続けています

 走り続けた先にある未来
「どん底」にこそ、明日に繋がるヒントがある

藤倉健雄氏:そうした先輩方のご恩のおかげで、ぼくはいつしか、憧れたパントマイムの世界で生計を立て、結婚もし、テレビ出演も増え、幸せな日々を送っていたのですが、実は一度、それらをすべて失ってしまったことがあるんです。それは20年間パントマイムでも私生活でも、パートナーだった当時の妻との結婚生活が破たんし、離婚したことが原因でした。

精神的に病んでしまい、不安感から来る不眠、体重の増加と、身も心もぼろぼろになってしまいました。自分が進んできたパントマイムという道を歩いているうえでの出来事だったので、何事もなかったかのようにその道を歩み続けることもできないし、ほかの道に進むこともできないという、八方ふさがりの状況でした。

――順風満帆だったはずの生活に突然の嵐。どうやって溺れずに這い上がっていったんでしょう。

藤倉健雄氏:そうした状況を救ってくれたのは、子どもの時に母がぼくに言ってくれた「どうしても行き詰まった時はアカデミア(学問の道)に進め」という言葉でした。そのまま道を歩むのではなく、別の道を進むのでもなく、その道の原点に立ち返る。ぼくにとってその原点はカンジヤマ・マイムが生まれた場所、アメリカ。そこに再び渡って、演劇、特に「教育演劇」という比較的新しい学問で博士課程を修めることが、ぼくの次に進む道だと思ったんです。

名もなきころから築き上げた日本での経験、仕事をすべて整理し、一からまた何十年分逆戻りのような状況に戸惑いはありましたが、踏み出すことでしか状況を打開することはできませんでした。40歳を超えての思わぬ再挑戦で、今思い出してもつらい時期でしたが、すべてを失って体当たりで進んだ結果、どん底と思われた状況は、結果的にまた、今のカンジヤマ・マイムに欠かせないものとなったのです。

ウィスコンシン大学演劇科の博士課程を無事に修了できただけでなく、この時に執筆した日本の教育演劇に関する英語の博士論文が、アメリカ 教育演劇協会より日本人初の最優秀論文賞を受賞するという栄誉にも恵まれました。

――道は下り坂や上り坂のままではない。

藤倉健雄氏:調子のいい時もあれば悪い時もあるんです。そうしたデコボコ道をあきらめずに進むことできたのは、最初に感じたパントマイムへの「憧れ」を持ち続けていたから。マルセル・マルソーが、トニー・モンタナロが、そして永六輔さんが魅せてくれた「憧れ」。特に若いころに感じるものは、ぼくもそうであったように、一生を左右するくらいインパクトのある、人を動かす最も強力なパワーであり、原動力です。

イギリスの諺だと思いますが、「子どもに航海術を教えたければ、方位の読み方や細かい計算方法を教えるよりも、ただ海の素晴らしさを教えてあげればいい」という言葉があります。心が憧れに向かうとき、それに立ちはだかる試練を子ども達は自らの創意工夫で解決しようと喜んで立ち向かいます。不器用なぼくが、何かを伝えるためにできることがあるとしたら、唯一自分の感動した体験を信じ続けることそして、それを伝えることだと思っています。

カンジヤマ・マイムの芸には、今まで出会った多くの人たちや、触れた文化、そして感動体験だけでなく、つらかった出来事など、喜怒哀楽が詰まっていますが、見てくださる方に、そのどれか一つでも感じ取って、一人ひとりが自分の道を進んでいくための原動力にして欲しいと思っています。

舞台を見てくださる方々にはさまざまな年代の方がいますが、特に若者には、ぼくたちがパントマイムに出逢い、生き甲斐を得たように、ぼくたちの舞台を通して、自分の中にある「感動の種」を発見して欲しい。そして、それが見つかったら、後は信じ続けて欲しい。その踏み出す一歩を、カンジヤマ・マイムは後押ししたいんです。実現していく姿を楽しそうに魅せるのも、舞台に立つ人間の大事な役割だと思っています。

Grab it!「今を掴んで、やりたいことを見つけよう 」

藤倉氏:ぼくのアメリカのマイムの師匠、トニー・モンタナロ氏の言葉に、「むだをはぶき、はぶき続けなさい。迷ったらとにかく最後の最後までむだをはぶき、これ以上はぶいたら作品が成り立たないというところまでしてみなさい(“Less is best. Less is best. When in doubt, reduce, until its starts to hurt the material.”)」という言葉があります。

ぼくのパントマイム演目の一つである『バイオリン弾き』は、35年近く前の、忘れ難いある個人的な悲しい出来事をもとに、試行錯誤してパントマイムに昇華した作品ですが、最初に作ってから、何度もむだを省いて、削ってを繰り返しています。 エッセンスを凝縮して、真髄を伝える。「簡潔さは機知の精髄である」とは、シェークスピアの『ハムレット』に出てくる一節ですが、これこそがパントマイムの義務であり、また醍醐味であると考えています。身体が動かなくなるその日まで、作品を極める。削り続ける。完成はない。そういう日々が、この先も続いていくんだと思います。

――そして完成することのない道は、終わることなく続きます。

藤倉健雄氏:この40年、目の前のことをこなしてこの道を進んできたので、何か大きなミッションを掲げるということはありませんでしたが、もしかすると、やるべきことというのは、その行動を見てくれたまわりの人たちが決めてくれるのかもしれません 今、ぼくができることは、ひとえに永六輔さんを始めとする師匠たちから受けたご恩を、パントマイムを通じて若い人たちに返すことだと思っています。

早稲田大学や上智大学での講義も、そうした「ご恩返し」の一つとして取り組んでいるつもりです。終わることのない道はこれからも続いていきますが、後に続く人たちの、道標になるようなカンジヤマ・マイムの芸を、これからも皆さまにお届けしたいと思います。

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