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川島良彰さん(コーヒーハンター)「コーヒーのためにできることはすべてやる」インタビュー

エル サルバドルに行ったけれども……留学、勘当、西友アパレル時代

川島良彰氏:ところが、それまで海外には行ったこともなく、飛行機に乗ることも初めてでしたから、搭乗してから不安から涙は出るわ、その状況を見た乗客から心配されるわで……。でも、現地に到着してひと晩寝たら「こんな景色が綺麗なところで、これから学ぶことができるんだ」とホームシックから一転、ワクワクしましたね(笑)。

――ラテン系の血が(笑)。

川島良彰氏:楽天的なのかもしれません(笑)。現地では、駐日エル サルバドル大使の妹さんのお宅でホームステイをさせて貰い、ホセ・シメオン・カニャス大学に通いました。

「東京の大学に行けば、遊びで身を持ち崩すだろう」という父親の思惑もあっての、(そうならないための)エル サルバドル行きでしたが、ある意味当たってしまいました。

言葉を覚えるために友人をたくさん作り、週末は夜な夜なパーティーに繰り出していました。そもそもコーヒーの勉強をするための口実としての留学でしたから、途中から大学の講義にも出席しなくなり、勝手に直談判して入所させてもらったエル サルバドル国立コーヒー研究所で、コーヒー栽培の研究に明け暮れていましたね。

エル サルバドルへはトータル5年いたのですが、じつは途中で、親に大学に行っていないことがバレてしまって……二年半のカリキュラムが終わる段階で一度、日本に呼び戻されているんです。

――親はカンカンですね(笑)。

川島良彰氏:お金の問題もあり、仕方がないのでいったん日本に帰ったものの、もうすっかり家を継ぐ気はなくなり、そのうち親とも喧嘩するようになり、ついに勘当されました。

どうしたものかと職を探していたら、ちょうど津田沼の西友ストアが中途採用を募集しており、当面の生活とエル サルバドルへ“帰る”ための渡航費用を稼ごうと、応募しました。大学も卒業していないしダメ元でしたが、多数の応募者の中から運良く採用されました。

当時の津田沼は量販店と百貨店の激戦区で、私は期待を背負って「子供ベビー服課女児服係」に配属されました。午後5時から始まるワゴンセールのかけ声も、最初は恥ずかしくて言えませんでしたが、後ろから係長さんに叱咤され、そのうちにいつの間にか独特の声で「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ~」と言えるまでになりました(笑)。その様子を、たまたま心配で見にきていた母と姉に目撃されて……、その場で泣かれましたね。

1日500 円で生活して、正月出勤などお金を貯めるために仕事は一所懸命に頑張っていましたが、昼休みは屋上でコーヒーの本を読んで勉強していましたから、係長から「なにをやってるんだお前、アパレルのことを勉強しろ」って(笑)。一年半いましたが、そんな、どこか心ここに在らずといった調子でしたから、慰留されることもなく円満に(!?)辞めることができました。


リベンジ!二度目のエル サルバドル「内戦激化で銃撃され腰を抜かす
」

川島良彰氏:お金を貯めて渡った二度目のエル サルバドルは、状況がうって変わっていました。内戦による治安の悪化で、留学当初500人規模いた在留邦人も、その頃は数十人程度が残っているだけでした。

革命が起き内戦がさらに激化していましたが、コーヒーの栽培に関わっていることが楽しくて研究所に残っていました。毎日、銃声と爆弾の音が聞こえる中で、だんだんと感覚が麻痺していましが、ある日、市内でテロに巻き込まれ武装集団に銃撃され、自分の30cm上を弾がビュンビュン飛んでいったときは、さすがに腰が抜けました。

その後も、研究を続ける傍ら、内戦の取材に来られた筑紫哲也さんをはじめ、日本から来る報道関係者の通訳のアルバイトをして生活費を稼いでいましたが、いよいよ実験区のある街も武装勢力に制圧され、避難のため米国ロサンゼルスに渡りました。

パンチパーマでジャマイカ人になりきる

川島良彰氏:その後は、ロサンゼルスで当時コーヒーメーカーUCC上島珈琲の会長であった上島忠雄さんとご縁があって、入社させて頂くことになりました。そこから本格的に、世界の農園でコーヒー栽培に携わるようになりました。生産責任者として、世界各国でUCCの直営農園を開発に携わる傍ら、マダガスカル島では固有種マスカロコフェアの保護と低カフェインコーヒーを開発したり、フランス海外県のレユニオン島では絶滅したとされていたコーヒーの品種「ブルボン・ポワントゥ」の発見とコーヒー産業の復活を手掛けました。

「コーヒーのためにできることはなんでも」ということで、例えば長らく搾取の時代が続いたジャマイカでは、基本、外国人は信用されませんでしたが、どうにかして、彼らのコミュニティに入るために、「まずは外見から」と、パンチパーマにしたりしていました(笑)。それが功を奏してか、1050エーカー(東京ドーム90個分)の土地に三つの農園を作ることができました。

実はこのときも人生の大きな節目でした。開発担当から現地法人の社長となり、現地の役職者と会食が続き、農園に足を運べない時期が続いていました。見かねた家族からの「初心を忘れたのか」という言葉にハッとさせられ、会社を辞めて持っているものをすべて売って、マイアミでキャンピングカーを買って中南米を目指し、その旅の途中で気に入った産地があれば、そこで農園を拓いて生活しようと決めていたんです。私の上司であった前述の上島さんからは、慰留という形でハワイ行きを打診されていたのですが、断るつもりでいました。

ところが1988年、20世紀最大と呼ばれたハリケーン・ギルバートがジャマイカを襲い、せっかく作った農園も全滅し、住んでいた家も吹き飛ばされたのです。このときばかりは途方に暮れました。家族には避難のため、先にハワイへ行ってもらいました。ひとりになり決心がついた私は、「もとの素晴らしい農園に戻そう」と、復興に取りかかりました。マイナスからの出発でしたが、現地のスタッフの協力もあり「とにかくやるしかない」という気持ちで前に進むことができたんです。もしこのことがなければ、今頃どこかの農園でコーヒー豆を栽培していたかもしれませんね。

――いよいよ、コーヒーハンターとして独立しようと思われたのは。

川島良彰氏:やはり「コーヒーのためにできることは、すべてやる」と考えた結果、畑の選別から栽培・収穫、そして精選加工、冒頭でお話しした輸送、保管、焙煎、包装までを一括して独自の基準で、一切の妥協なく、自らやることで、新しいコーヒーカルチャーを生み出したいと思ったからでした。そうして、2008年、独立してミカフェートを立ち上げました。

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