パレスチナで知ってしまった世界の現実
関根氏:日本人が少なく、小規模な大学で環境学を学べる大学を探していたら、リベラルアーツ(教養)大学であるベロイト大学に出会いました。実は、当初は地球の環境問題解決を志していたので、環境学を専門にしようと考えていましたが、初めて取った生物のクラスが難しすぎて、すぐに諦め、結局以前から何となく起業することを考えていたので経営学に落ち着きました。 また、アメリカ留学の途中に、大学の第二外国語で中国語を選択し、一学期間でしたが中国・上海へ短期留学もしていました。
日本からアメリカへ留学し、その大学の学生として中国に留学するという不思議な感じでしたが、そこでもさまざまな人たちの親切に触れることができました。「日本人」とか「アメリカ人」とか「中国人」というレッテルだけで考えることの無意味さも実感しましたね。この時から、学校以外にもさまざまな場所に旅をしていましたが、そこでの「出会い」が、私にとって教科書の代わりになっていたんです。
――「出会い」と「学び」を重ねます。
関根氏:実は上海に留学していた頃、寮のルームメイトだったフランス人が大のワイン好きで、ちょくちょく一緒に飲んでいたんです。身近で好きなことを仕事にするのもいいなと考え、卒業したら大好きなワインを扱う会社で働き、いつかはワインの輸入商社の設立をと考えていたんです。卒業後は、ワイン輸入担当になるべく、日本のスーパーマーケットへの就職も決まっていました。それで、アメリカの大学を12月に卒業し、就職するまでの3ヶ月間、世界を旅してまわろうと、ワイン発祥の地とも言われるトルコを出発地に、卒業旅行を始めたんです。それが、運命の大きな分かれ道でした。
最初の出発地、トルコで出会ったユダヤ系カナダ人の女性と仲良くなり、特別ゴールも決めていない旅だったので、面白そうだと、そのまま一緒に彼女の次の目的地であるイスラエルに向かったんです。途中でそれぞれ単独行動をすることになり、自分はイスラエル北部のゴラン高原にあるワイナリーを回ったあとに、ヨルダンのペトラ遺跡へ行く予定でいました。
ある時私は、エルサレムの旧市街で、ヨルダン行きの乗り合いバスを待っていたのですが、そこでひとりの日本人女性に声をかけられました。彼女は、現地で医療ボランティアとして働いている方だったのですが、話しているうちに、「ガザ地区」にあるという彼女の住む家に招待されたんです。何も知らない自分でしたが、さすがにそこが半世紀以上も抗争が続く、旅行者にとって危険な土地であることは知っていました。けれど、好奇心の方が勝って結局訪ねることになったんです。
現地でも信任の厚い彼女の招待ということもあって、ガザの検問所に入った段階から熱烈な歓迎を受けました。現地のパレスチナ人の院長や医師を紹介してもらい、紛争地区の現在、そこに至るまでの歴史なども教えてもらいましたね。ただ、初めて知る惨状に驚いたものの、経験のない自分には、やはりどこか実感の涌きにくいもので。それよりも、たったひとりの少年のある言葉に、私は大きな衝撃を受けるんです。 病院前の広場でサッカーをしている子どもたちを見て、自分も混ざって一緒に遊んでいた時のことでした。険しい表情の大人が多い中で、サッカーをしている子どもたちは特に輝いて見え、そんな彼らに何気なく質問したんです。「将来の夢は何?」って。そこで返ってきた言葉が、「爆弾の開発者になって、できるだけ多くの敵を殺してやること」だったんです。
――一人の少年に予想外の「夢」を突きつけられます。
関根氏:どこか観光気分で訪れていた自分の心は、言いようのないショック状態となりました。また、自分の無力さに、歯がゆい想いでいっぱいにもなりました。同じ時代の地球に生まれたのに、絶望してしまっている。その少年は4歳の頃、目の前で兵士に叔母さんが銃殺され、仕返しがしたいと語りました。子どもらしい夢を持つことも許されない現実。日本では“当たり前”の、子どもが子どもらしい夢を持てる世界を創るために、自分は、この世の中にどんなアクションで臨めるだろうか……。
そもそも来る予定のなかった場所で、知らずに済んだかもしれない現実。そうしてまた、予想外の場所とタイミングで私は「自分の命の使いみち」を考えさせられることになったんです。奇しくも、私の目の前で交通事故で友だちが亡くなったのは、私が4歳の時でした。世界の反対側で、不思議な4歳がリンクしたのです。それぞれの夢は全く違うものとなっていくのですが、企画していた世界半周三ヶ月予定の旅は、ガザ地区で出会った少年が語った夢が忘れられず、予定を早めに切り上げ、上海から船で日本に着き、そのまま4月を迎えて社会人になりました。
このまま死んで「幸せ」と言えるだろうか
関根氏:私の新入社員時代はまったく惨めなものでした。大好きなワインが扱えるかと思って入った最初の会社では、一ヶ月単位でいろいろな部門を回って、精肉部門では肉を売り、食品部門では商品の発注管理を担当したり、売り場に出て試食を振る舞ったりもしていましたね。「ここで何をやっているんだろう?」と何度考えたか分かりません。半年以上経って、ようやく「いつワインを担当させてもらえるんですか」と社長に直談判しに行ったら、「君には世界中から肉を探すマーチャンダイザーになってほしい」と言われ、話が違うと、しばらくして辞めることを決意しました。
90年代後半から2000年の前後の頃のことで、当時はいわゆる「ネットベンチャーブーム」が起きていて、同世代の人たちが次々と会社を興し、上場させて、日本の会社の「常識」を塗り替えていた時代でした。直感的に「これは面白い!」と感じた自分は、ワインのことも忘れ、インターネットが持つ可能性に興味を惹かれ始めたんです。最初の会社を辞めると同時に、今度はウェブサイトづくりの基礎を学ぶために専門学校に入りました。
――インターネットに可能性を見出し、生きる情熱を傾けることになりました。
関根氏:実はその専門学校を卒業してすぐに、ウェブ制作の仕事をひとりで始めました。しかし、いざSOHO(自宅など小規模のオフィスで仕事をする形態)を始めてみると、仕事はあるものの、時間の管理が出来なく、だらけるばかりで先が見えなくなったんです。「このままではまずい。経験を積まねば」と、ちゃんと起業するための修行をするつもりで次の就職先を探しました。暗中模索という感じでしたね。 本格的に起業することになるまで、さらに二つの会社を転々としなければなりませんでした。
2社目となるIT企業では、Webプロデューサーとして比較的自由に働かせてもらっていましたが、ここでは、のちの社会貢献の形に繋がる「クリック募金」の提案を企画していました。ユーザーはお金を払わなくても、サイト内のページの所定の位置をクリックするだけで募金ができる、費用はスポンサー持ち、という仕組みで。残念ながら「事業性がない」と言われ、それでは居る意味がないと、その会社も結局一年足らずで辞めてしまうんです。
3社目は、ビットバレーと呼ばれていた渋谷のIT業界の中でも、目覚ましく急成長していた会社でした。そこではポイントサイト(ユーザーが買い物をして貯まった“ポイント”を現金か商品に変えるもの)の新規立ち上げから携わらせてもらっていましたね。入社前から、このポイントサイトを寄付と繋げられないかと考えていた自分は、立ち上げの際に「寄付」の概念も入れてもらうことに成功したんです。ところが仕事が社会貢献に繋がったと喜んだのも束の間で、ようやく実を結ぶかに見えた「ポイント→寄付」案は、利益が減ると判断され、導入からわずか数ヶ月でプロジェクトは中止に。やりたいことが会社で実現できない不甲斐なさに、どんどんと不満が溜まっていきました。
「何のために働くのか」という気持ちが、無視できないほど自分の中で膨らんでいました。もちろん会社は利益を追求する場所ということは分かっていたつもりでしたが、一方で、売上だけが「会社」というものの存在意義ではないはずだとも感じていたんです。「世界中で困っている人たちを助ける試みは、事業としてそんなに評価されないものなのか」……。
――やりたいことが形にならないもどかしさに直面します。
関根氏:仕事は早くても終電帰り。今で言えばブラックな環境でした。事務机に頭を突っ込んで寝て、起きてすぐ仕事という日も多くありました。肉体的にも限界でしたし、気持ち的にも限界だったんでしょう。ある日、会社の会議室に向かおうと歩いていた自分は、突然力が抜けるように、膝から崩れ落ちてしまったんです。立ち上がろうとしても立ち上がれない。「もう、ダメかもしれない」。意識が遠のく中で、気がつけば渋谷の職場から中目黒の病院に運ばれていました。
自分が運ばれた日は、ちょうど病室も一杯で、物置小屋のような場所に置かれたベッドに横たわって点滴を受けていました。その状況がなんだかおかしくて、回復するに従って、笑いがこみ上げてきたんです。そして、ポタポタと落ちる点滴の管を見上げながら「あの一滴一滴が人生の一秒一秒だ。時間は限られている。ここで死んだら幸せだろうか」って考えていたんです。もちろん答えはNO。この時、パレスチナ以来ようやく、自分という人間、人生に向き合うことができたように感じました。
そして、決めたんです。「今度こそ自分が命がけで、本当にやりたいと思える仕事に打ち込もう」と。そうして、自分のやりたいことをする場所、ユナイテッドピープルの前身となる、「ダ・ビンチ・インターネット」という会社を立ち上げました。思い立ってすぐの行動だったので、事業計画は何もなし。何もやることが決まっていないから、逆手にとって、何でもできる「万能の天才」(=ダ・ビンチ)、それに得意のインターネットをくっつけてできた社名。26歳でした。