「再び日本での挑戦」ジャン・ジョルジュ氏からの白羽の矢
米澤氏:憧れだったレストランでスー・シェフになるという目標も達成し、日本に帰って学んだことを存分に活かそうと考えていた頃、ちょうどニューヨーク・コンセプトのレストラン「57 FIFTY SEVEN」が開店することになり、同店のグランドシェフとして働くことになりました。そうして、お世話になった「Jean-Georges」に別れを告げ、2007年日本に帰国しました。
――いよいよ、日本で腕を振るう時が訪れました。
米澤氏:「57 FIFTY SEVEN」のほかに、古巣でもあった恵比寿の「MLB cafe」でオープニング・シェフとして働き、その後「KENZO ESTATE WINERY」では、エグゼクティブ・シェフとして、ワイナリーのある米国ナパ・バレーと日本を行き来しながら、料理の腕を磨き、自分の店を開くという目標に向かっていました。
ところが、ニューヨークから帰国して6年後、またもや転機が訪れます。自分が修行した「Jean-Georges」が日本に進出して、東京の六本木に彼の日本料理への想いを込めた店を開くというのです。 そして、さらに思いがけないことに、その「Jean-Georges Tokyo」のシェフ・ド・キュイジーヌを任せられないかと、直接ジャン・ジョルジュ氏から声をかけられたんです。
インターンの頃から夢見ていた「Jean-Georges」が日本にやってくる。しかも、その大きな舞台が今自分の目の前にある。ジャン・ジョルジュ氏は、「今回の東京店のシェフ・ド・キュイジーヌは、君が日本人だからお願いするのではない。君にだったら私の想いを任せられると思ったからだ」。そんな言葉に心動かされ、オファーを受けることを決めました。そうして、2014年、私は再び「Jean-Georges」の一員として、現場に立つことになったのです。
“美味しいと笑顔が溢れる料理”を届け続ける
――「相手に選ばれる行動」ができれば、自ずと道は拓かれていく。
米澤氏:そして、ポジティブに自分ごとで考えていく。料理長になりたかったら、「この人に任せたい」と思ってもらえるような働き方をすればいい。お給料を多くもらいたいと思ったら、「こいつにだったら、このくらい払ってもいい」と思ってもらう行動をすればいい。相手に選ばれる行動ができれば、自ずと道は拓かれていくと思います。頑張ってもダメだった場合、どこかで自分本位になっていないか見直した方がいいと思います。
私がお店でスタッフに言うことは、大体いつも同じです。相手にとって何が嬉しいことかを常に考えて現場に立ち、サービスをするということ。自分がお客さまだったら「それはハッピーか、それを食べたいか、その笑顔で迎えてもらいたいか、その身なりを見て嬉しいか、そのタイミングでドリンクを聞いてもらいたいか」そう自分自身に問うことで、自ずとサービスの姿勢がどこに向かっているかわかるはずです。
本質はすごくシンプルで、単純が故にそれを実行するのは難しい。シンプルなことにどれだけ真剣に取り組めるかが大切です。スキルは、時間をかければ誰しも一定のレベルは身につくものです。それは当然のこととして、お客さまが心地よいと思うことを、先回りしてできるかどうかが、料理人・サービスマンにとって何よりも大切なことですし、むしろそれ以上に必要なことはないとさえ思っています。
――新しい時代の中で、料理人としての挑戦は続きます。
米澤氏:新しい時代の流れは今、自分のいる飲食業界にも確実に訪れようとしています。数ある職業の中で、飲食だけ、大昔からビジネスのスタイルが変わっていません。ところが、IoTなど、技術が高度に発達した今、何かの拍子に、大改革が起きるかもしれない、一つの大きな転機にあるんじゃないかと思っています。それが、どんな形になるか、今はわかりません。ただ、考えようによっては、今まで料理人が目指してきた一つのゴール「オーナーシェフ」という以外にも、もっとたくさん可能性を広げるものになるかもしれないと考えています。
飽和状態にある東京のレストラン業界で、料理人という職業になかなか「夢」を感じにくくなってきている今、私は新しい料理人の道というのも、そうした新しい技術の中に見出し、示していきたいと思っています。そうして、自分が誇りに思う「料理人」を目指してくれる人がもっと増えて欲しい。美味しい食事には、誰もが喜んでくれます。それを作り出せる料理人という仕事は、やりがいのあるいい仕事だと私は信じています。そうして、自分の愛する料理の世界で挑戦を続けながら、「食した時に美味しいと笑顔があふれる料理」を、これからも皆さまにお届けしていきたいと思います。